室町政争戦乱史目次

  • 店主が勉強中の
    「室町政争戦乱史」の
    ノートです
  • 「歴史の勉強は
    箇条書き”
    が一番効率的なのではないか」
    というのが裏コンセプト
  • 誤りや不足な点がありましたら、
    大変お手数ですが、
    下記メールアドレスまで
    ご連絡いただけると幸いです。
    natsunishiki_staff@yahoo.co.jp
室町関東
政争戦乱史概略
(結城合戦まで)
鎌倉公方・関東管領とは
鎌倉府の成立
康暦の政変と足利氏満
応永の乱と足利満兼
上杉禅秀の乱
永享の乱
結城合戦
室町関東
政争戦乱史概略
(享徳の乱から
 豆州騒乱まで)
鎌倉府復活
享徳の乱
長享の乱
豆州騒乱
長享の再乱
両統迭立
(後嵯峨
-後深草
-亀山
-後宇多
-伏見)
正元元年(1259)、
後嵯峨上皇
後深草天皇を譲位させ、
その弟・亀山天皇を
即位させる。
亀山天皇の次は
亀山天皇の子息・
後宇多天皇が即位。
しかし、
鎌倉幕府の裁定により
後宇多天皇の次には
後深草天皇の子息・
伏見天皇が即位することになる
両統迭立
(伏見
-後伏見
-後二条
-花園
-後醍醐)
伏見天皇(持明院統)が
子息に譲位し、
後伏見天皇が即位。
これに
亀山上皇(大覚寺統)は反発し、
鎌倉幕府を動かす。
後二条天皇(大覚寺統)が
即位して持明院統は逆に反発。
徳治三年(1308)、
後二条天皇が急逝し、
花園天皇(持明院統)が即位し、
尊治親王(後醍醐天皇)(大覚寺統)が
皇太子となった
文保の和談、
後醍醐天皇即位
文保元年(1319)、
鎌倉幕府から朝廷に
皇位継承に関する要請が伝えられる
(文保の和談)。
文保二年(1318)、
尊治親王(大覚寺統)が即位
(後醍醐天皇)。
後醍醐天皇は
朝廷復権に向け、
精力的な政策を打ち出す
正中の変 元亨四年(1324)、
後醍醐天皇が倒幕計画を
企てるが、実行直前に
幕府に発覚。
天皇側近の日野資朝は流罪となる。
しかし、
後醍醐天皇自身は不問とされ、
帝位を保つのだった
元弘の変 元弘元年(1331)、
後醍醐天皇の倒幕計画が露見。
天皇周辺の者が処罰される。
後醍醐天皇は脱出して
笠置山に籠城。
また、楠木正成
下赤坂城に立て籠もって
幕府軍に抵抗する。
幕府により、持明院統の
光厳天皇が即位。
笠置山落城後、
後醍醐天皇はとらえられ
隠岐に流罪となった
元弘の乱
(楠木正成千早籠城、
 後醍醐天皇隠岐脱出、
 赤松則村入京、
 菊池合戦)
元弘二年(1332)から
三年にかけて、
吉野で護良親王、
河内(千早・赤坂)で楠木正成、
播磨の赤松則村、
九州の菊池武時らが
あいついで反幕府の挙兵。
また、元弘の変で敗れ、
隠岐に流されていた後醍醐天皇
元弘三年(1333)に脱出し、
名和長年とともに
伯耆国船上山に立て籠もる
元弘の乱
(足利高氏
 六波羅攻撃)
元弘三年(1333)、
足利高氏らは、
鎌倉幕府の命を受け、
後醍醐天皇軍の
討伐へ向かう。
しかし、
高氏は鎌倉幕府の
六波羅探題を襲撃し、
六波羅探題は滅亡する
元弘の乱
(新田義貞挙兵、
 鎌倉幕府滅亡)

元弘三年(1333)
上野国の新田義貞
倒幕の兵を挙げ、
鎌倉に進攻。
得宗・北条高時らは自害し、
鎌倉幕府は滅亡する
元弘の乱
(博多合戦、
 鎮西探題滅亡)
元弘三年(1333)五月、
足利尊氏の六波羅攻撃、
新田義貞の鎌倉進攻により、
鎌倉幕府は滅亡した直後、
鎮西探題も倒幕勢に攻撃され、
滅亡する
建武の新政
(陸奥将軍府・
 鎌倉将軍府設置)
元弘三年(1333)、
鎌倉幕府滅亡を受けて
後醍醐天皇が入京し、再即位。
建武の新政」をはじめる。
関東は足利氏の勢力圏に。
これに対抗して
後醍醐天皇は
陸奥将軍府を設置。
義良親王北畠顕家を派遣する。
一方、足利氏側は
鎌倉に鎌倉将軍府を設置させ、
成良親王・足利直義
そこに置くように
建武の新政
(護良親王入京、捕縛)
元弘の乱で活躍した
護良親王は、
建武政権樹立後も
しばらく入京しなかった。
元弘三年(1333)六月、
ようやく入京するが、
すぐに足利尊氏と、
自らの父・後醍醐天皇と対立。
建武元年(1334)十月、
謀反の疑いをかけられた
護良親王は捕縛され、
鎌倉に送られてしまう
建武の新政
(西園寺公宗事件)
後醍醐天皇は入京後、
「建武の新政」に着手。
建武二年(1335)、
元関東申次の貴族・
西園寺公宗が
北条氏の生き残りと
結託して謀反を起こしたとして
逮捕される事件が発生する
中先代の乱
(北条時行鎌倉制圧、
 足利直義が護良親王を殺害)
建武二年(1335)七月、
北条高時の遺児・
北条時行が信濃国で挙兵、
関東へ進攻する。
足利直義は鎌倉から撤退する。
その際、直義は
護良親王を殺害するのだった
中先代の乱
(足利尊氏出兵、
 鎌倉奪還)
建武二年(1335)、
北条時行が鎌倉を制圧し、
足利直義は鎌倉から撤退。
足利尊氏は後醍醐天皇からの
出兵許可を待つが、
結局、命令のないまま鎌倉へ。
尊氏軍は時行側から
鎌倉を奪還する
箱根・竹之下の合戦 足利尊氏は
中先代の乱終結後も
後醍醐天皇の帰京命令を
無視して鎌倉にとどまる。
建武二年(1335)十一月、
後醍醐天皇は尊氏討伐軍として
新田義貞を派遣。
当初、戦う姿勢を
見せなかった尊氏だが、
義貞が鎌倉に迫り、出陣。
箱根・竹之下の合戦で
足利側が義貞を撃破する
尊氏一時上洛後、
九州へ撤退
箱根・竹之下の合戦で
新田義貞に勝利した
足利尊氏は
建武三年(1336)一月、入京。
後醍醐天皇は
一時京都から逃走する。
しかし、
北畠顕家が奥州から進軍
(第一次上洛)。
尊氏を京都から追い払い、
尊氏は九州へと撤退する
多々良浜の合戦 建武三年(1336)、
京都から撤退していた
足利尊氏は九州に上陸。
筑前国多々良浜で後醍醐天皇方の
菊池武敏と戦う。
この戦いで勝利した尊氏は
再び畿内に向かう
白旗城の合戦 延元元年(1336)三月、
後醍醐天皇からの
足利尊氏追討命令を受け、
新田義貞が山陽道を進む。
赤松則村の守る白旗城を
攻撃するが、落とせなかった。
尊氏側は上洛を決定し、
東上を開始する
湊川の合戦 延元元年(1336)五月、
九州から畿内へ向かっていた
足利尊氏・直義軍と
後醍醐天皇方の
新田義貞・楠木正成軍が
摂津国湊川で激突。
足利側の圧勝に終わり、
正成は自害。
尊氏は京に入った
名和長年戦死、
光明天皇即位
湊川の合戦で勝利した
足利尊氏軍が入京。
延元元年(1336)六月、
東寺の戦いでも勝利し、
名和長年を戦死させる。
延元元年(1336)
十月から十一月、
尊氏は後醍醐天皇と一時和睦し、
光明天皇が即位。
このとき、
新田義貞は恒良親王とともに、
越前国へ去ってしまう
建武式目、
金ヶ崎城の戦い
延元元年(1336)十一月、
足利尊氏は政治基本方針
「建武式目」
を制定。
一方、新田義貞が守る
越前金ヶ崎城は
延元二年(1337)三月に落城。
尊良親王は死亡。
恒良親王は捕縛されるが、
新田義貞は生き延びる
北畠顕家鎌倉制圧 延元二年(1337)八月、
後醍醐天皇の上洛命令を受け、
北畠顕家が奥州から
第二次上洛戦を開始。
延元二年(1337)十二月に
顕家は鎌倉を制圧し、
足利義詮は逃走する
青野原の戦い
(北畠顕家戦死まで)
鎌倉を制圧後、
北畠顕家は京に進軍し、
美濃国青野原で
幕府軍に勝利する。
しかし京には入れず、
建武五年/延元三年
(1338)五月、
顕家は和泉で戦死する
灯明寺の戦い
(新田義貞戦死)
金ヶ崎城落城後、
新田義貞は
幕府側の越前国守護・
斯波高経と越前で戦い、
一時金ヶ崎城を奪還する。
しかし、
建武五年/延元三年
(1338)閏七月、
藤島城付近で
義貞は戦死してしまう
後醍醐天皇崩御 暦応元年(1338)九月、
後醍醐天皇は
奥州、常陸、九州に
三皇子を派遣。
懐良親王は九州へ。
船の難破などもあったものの
宗良親王は遠江へ、
北畠親房は常陸へ。
そして暦応二年/延元四年
(1339)八月十六日、
後醍醐天皇は吉野で崩御する
『神皇正統記』成立
(北畠親房
 関東撤退まで)
暦応元年/延元三年
(1338)以降、
南朝武将・北畠親房は
常陸国で活動。
『神皇正統記』
『職原鈔』
を執筆する。
しかし、
戦果は思わしくなく、
康永二年/興国四年
(1343)、親房は
吉野に撤退する
懐良親王
薩摩から肥後へ
暦応五年/興国三年(1342)、
四国に逗留していた
南朝方懐良親王が薩摩へ上陸。
その後、島津氏と戦いを繰り広げる。
正平二年/貞和三年(1347)、
菊池氏を頼り、
懐良親王は肥後国へ
四条畷の合戦
(楠木正行戦死)
正平二年/貞和三年
(1347)、
楠木正成の子・
楠木正行が挙兵。
幕府軍に連勝する。
しかし、
正平三年/貞和四年
(1348)、
高師直率いる幕府軍が
正行軍に勝利。
正行は自害した
観応の擾乱
(師直吉野進攻、
 直冬西国へ)
正平三年/貞和四年
(1348)一月、
四条畷の合戦で
楠木正行を倒した
高師直は吉野へ進攻。
南朝の後村上天皇は逃れ、
賀名生に移る。
その頃、中国地方の抑えとして
足利直冬が西国へ着任。
そして、
足利直義と高師直の対立が深まる
観応の擾乱
(師直御所巻き、
 直義引退)
正平四年/貞和五年
(1349)閏六月、
足利直義は将軍足利尊氏に、
高師直の執事職罷免などを要求し、
これが通る。
しかし同年八月、
高師直が軍勢で尊氏邸を取り囲み、
直義との排除を要求。
直義は引退に追い込まれる
観応の擾乱
(足利直冬九州へ)
正平四年/貞和五年
(1349)、
足利直冬は備後から
九州肥後へ。
そこで独自勢力を築き、
九州は幕府・南朝・直冬の
三つ巴の様相を呈する
観応の擾乱
(直義京を脱出、
 直義方鎌倉制圧)
正平五年/観応元年
(1350)十月、
足利直義が京から脱出。
各地で直義側の挙兵が相次ぎ、
鎌倉も直義方が制圧する
観応の擾乱
(正平の一統)
足利直義との争乱の再開後の
正平六年/観応二年
(1351)十月、
足利尊氏は南朝に帰順。
正平の一統
が成立し、
北朝は否定され、
崇光天皇は廃される。
そして、尊氏は東へ向かい、
鎌倉に入った直義との直接対決へ
観応の擾乱
(薩埵山合戦、
 直義の死)
薩埵山に陣取る足利尊氏と
それを包囲する足利直義。
尊氏側の宇都宮氏綱の挙兵があり
直義は敗北
鎌倉に送られ、そこで死没する
武蔵野合戦
(三上皇拉致、
 後光厳天皇即位)
正平七年/観応三年
(1352)閏二月、
反幕府勢力が相次いで
京都と鎌倉を制圧。
光厳・光明・崇光の三上皇らは
拉致されてしまう。
幕府は京都・鎌倉奪還後、
後光厳天皇を擁立することに
針摺原の戦い/
筑後川の戦い/
懐良親王大宰府制覇

三上皇拉致事件の後、
南朝軍は勢いを増し、
正平八年/文和二年(1353)と
正平十年/文和四年
(1355)には一時京都を制圧する。
さらに九州の
懐良親王・菊池武光も奮闘し、
正平八年/観応二年
(1353)の針摺原の合戦
正平十四年/延文四年(1359)、
筑後川の戦いで、
幕府軍に圧勝。
そして正平十六年(1361)、
懐良親王はついに
大宰府に入城する
日本国王良懐 正平十六年/康安元年
(1361)の懐良親王の
大宰府入城後、
幕府は斯波氏経・渋川義行を
九州に派遣するが敗退。
懐良親王は明から
「日本国王良懐」
とされ、冊封を受ける
貞治の政変
(道誉大原野花見、
 長者原の合戦)
康安元年(1361)以降、
管領・斯波義将
その父・斯波高経
権力を握る。
が、九州戦役の失敗や
興福寺との対立があり
立場が悪化。
佐々木道誉、赤松則祐ら
からの反発も
受けてしまう。
貞治五年(1366)、
足利義詮斯波親子を罷免
斯波親子は越前に逃れる
康暦の政変
(細川頼之失脚)
管領・細川頼之が
斯波義将と対立。
南朝討伐軍の失敗などもあり、
頼之の立場は悪化する。
康暦元年(1379)、
反頼之派が御所を包囲。
細川頼之は管領を辞任し、
讃岐に帰国する。
この混乱に乗じて
鎌倉公方・足利氏満
上洛を企てるが、
関東管領・上杉憲春が自刃し、
それを諫める
今川了俊九州戦役 応安四年(1371)、
今川了俊(貞世)が
対九州南朝戦に派遣される。
了俊は元中八年/
明徳二年(1391)、
九州南朝の最後の拠点を倒し、
九州南朝の戦いが終結する
小山義政の乱 康暦二年(1380)から
永徳二年(1382)にかけて、
下野国の有力豪族・小山義政
鎌倉公方・足利氏満に対し、
三度に渡って決起する。
最終的に義政は滅ぼされたが、
息子の若犬丸は逃亡した
小山若犬丸の乱
(小田孝朝の乱、
 田村の乱)
小山義政の乱鎮圧後、
小山義政の子息・
小山若犬丸は、
行方をくらます。
至徳三年(1386)に一度挙兵。
その後も、
嘉慶元年(1387)の小田孝朝の乱、
応永二年(1395)の田村の乱などに
若犬丸の陰があった。
しかし応永四年(1397)、
ついに若犬丸は自害する
明徳の乱
(内野合戦、
 山名氏清敗死)
山名氏は多くの領国を持ち、
「六分の一殿」
と呼ばれるほどだった。
が、明徳二年(1390)、
将軍・足利義満に対し、
山名氏清・山名満幸が叛乱。
氏清らは敗れ、
山名氏は所領を減らしてしまう
今川了俊九州戦役 応安四年(1371)、
今川了俊(貞世)が
対九州南朝戦に派遣される。
了俊は元中八年/
明徳二年(1391)、
九州南朝の最後の拠点を倒し、
九州南朝の戦いが終結する
応永の乱
(大内義弘敗死、
足利満兼挙兵失敗)
応永六年(1399)、
西国の大大名・大内義弘
足利義満に対し叛旗を翻し、
堺で籠城
同時に鎌倉公方・足利満兼
軍勢を動かす。
しかし、堺は落城し、義弘は敗死
満兼も兵を引き上げる
上杉禅秀の乱 応永二十三年(1416)
前関東管領・上杉禅秀(氏憲)が、
鎌倉公方・足利持氏らを襲撃。
禅秀は鎌倉を制圧する。
室町幕府(将軍義持)は
持氏側を支持。
持氏らが反撃し、
応永二十四年(1417)、
敗れた禅秀は自害する
足利義嗣出奔、
死亡
上杉禅秀の乱のさなかの
応永二十三年(1416)、
将軍義持の弟・
足利義嗣が出奔
尋問の結果、
「禅秀と義嗣が共謀」
「複数の有力守護も加担」
といった疑惑が浮上する。
応永二十五年(1418)
義嗣は殺害され、
真相は謎のままに
赤松持貞切腹 応永三十四年(1434)、
前将軍足利義持の命により
赤松満祐の所領が赤松持貞に
与えられそうになり、
緊迫の事態に。
しかし、
持貞が失脚・切腹して
沙汰止みとなる
北畠満雅の乱 応永三十五年
=正長元年(1428)、
称光天皇が崩御
後継の後花園天皇即位に反発し、
北畠満雅小倉宮聖承
擁立して挙兵する。
幕府追討軍が送られ、
満雅は討死する
九州永享の乱
(大内盛見戦死)
将軍足利義教の命を受け、
大内盛見は、
豊後守護・大友持直と
対決する。
しかし永享三年(1431)、
深江の合戦で持直に敗れ、
盛見は戦死してしまった
九州永享の乱
(大内持世豊後制圧)
大内持世と大内持盛の争いは
永享五年(1433)、
篠崎の合戦で
持世が勝利し、持盛を滅ぼす
さらに同永享五年、
持世は秋月城で
少弐満貞に勝利。
さらに、持世は
永享八年(1436)、
姫岳城の大友持直も倒し、
豊後制圧を成し遂げた
日野(裏松)義資殺害 永享六年(1434)、
日野重子が義教の男児を出産
(後の七代将軍義勝)。
重子の兄は義教から
処分を受けていた
日野義資だった。
義資邸に祝賀に訪れた人々を
義教は処分。
さらに日野義資も
強盗によって殺害された。
これを「義教の仕業」と
噂した者は流罪となってしまう
永享の山門騒動
(万人恐怖)
永享五年(1333)から
永享六年にかけて
将軍・足利義教に
比叡山延暦寺が嗷訴。
義教は経済封鎖などで
徹底的に対決。
永享七年(1435)二月、
首謀者を誅殺する。
翌日、延暦寺衆徒は
根本中堂を焼き、
集団自殺を行なった
大和永享の乱 永享七年(1435)、
村の抗争がきっかけで、
将軍足利義教が
大和に幕府軍派遣。
乱は鎮圧されるが、
途中で義教の弟・
義昭が挙兵したり、
将軍の命で
幕府軍の大名・
一色義貫、土岐持頼が
殺される場面も
永享の乱 永享十年(1438)、
鎌倉公方・
足利成氏が、
関東管領・
上杉憲実と対立し、
将軍足利義教
叛旗を翻すが完敗。
翌年、成氏は自害
結城合戦
永享十二年(1440)、
足利持氏遺児の
春王丸安王丸
結城氏朝に担がれ籠城。
一年後捕縛され、
斬首される
嘉吉の乱 嘉吉元年(1441)、
赤松満祐教康が、
自邸で足利義教斬殺
幕府の播磨追討により
赤松宗家滅亡する
禁闕の変 嘉吉三年(1443)、
将軍義勝死去直後に
後南朝が内裏を襲撃
首謀者は鎮圧されるが、
奪われた神璽は
長く見つからなかった
赤松満政の乱 大河内家の赤松満政は
嘉吉の乱後も播磨に
領国を持っていたが、
文安元年(1444)、
山名持豊に奪われ、
これを不服として
合戦するも敗死
赤松則繁追討 嘉吉の乱後に渡海し、
その後帰国していた
赤松則繁を、
文安五年(1448)、
赤松則尚が討つ。
が、その褒賞を巡って
山名持豊と細川讃州家が
一触即発の事態に
江の島合戦 宝徳二年(1450)、
鎌倉公方足利成氏が、
上杉家家臣の
長尾景仲・太田道真らと
衝突する
畠山家
家督争い
(持国死去まで)
畠山持国の後継は
弟・持富となる予定だったが、
持国がそれを取り消して
実子・義夏(=義就)を後継者に指名。
持富の子・弥三郎(義富)と、
持国・義夏親子の間で、
享徳三年(1454)から戦闘となる
赤松則尚の乱 享徳三年(1454)末、
足利義政から山名宗全に
隠居命令が下る。
これによって
赤松則尚が播磨へ。
しかし享徳四年、
宗全の攻撃を受け
則尚は自害
享徳の乱
(古河公方・
 堀越公方
 併立まで)
享徳三年(1454)、
足利成氏上杉憲忠殺害
上杉家と成氏の間で
全面戦争に突入する。
足利政知下向後は
堀越と古河に
公方が併立
長禄の変
(赤松氏再興)
嘉吉の乱で滅ぼされた
赤松氏遺臣
後南朝勢力に潜入。
禁闕の変以降、
行方不明になっていた神璽を、
長禄二年(1458)に取返し、
赤松氏再興を果たす
長禄合戦
(武衛騒動)
長禄二年(1458)から
三年にかけ、
越前を舞台に、
斯波義敏
家臣・甲斐常治の間の
戦闘が勃発。
将軍の命で義敏は
家督を剥奪され、
斯波義廉が擁立される
今参局失脚、
伊勢貞親・
季瓊真蘂台頭
文安六年(1449)の
義政将軍就任から
しばらく後は、
管領や大名たちの他、
義政の母・日野重子
義政の妻・日野富子
さらに乳母・今参局ら、
近習の意向も強く働く、
複雑な権力構造に。
しかし長禄三年(1459)、
今参局失脚・自害。
その頃から、
伊勢貞親季瓊真蘂
新たな側近として台頭する
河内嶽山城の合戦
享徳四年(1455)
家督を継いだ
畠山義夏(=義就)は、
すぐに義富を追って
大和で暴れまわる。
しかし
義就は足利義政の
怒りを買い、
義政は義富の弟・政長の
家督相続を認めて
義就討伐命令を出す。
それでも義就は、
寛正元年(1460)から
寛正四年(1463)まで、
河内嶽山城で徹底抗戦を
行なうのだった
義視還俗、
義尚誕生、
文正の政変
寛正五年(1464)、
将軍義政の跡継ぎとして、
弟の義視が内定するが、
寛正六年(1465)には
日野富子が男子を出産
(のちの義尚)。
文正元年(1466)九月、
義政側近の
伊勢貞親季瓊真蘂は、
義視に謀反の疑いを
かけようとするが
逆に失脚してしまう
応仁の乱
(御霊合戦、
 応仁の乱勃発)
上洛した畠山義就の扱いを巡り、
文正二年(1467)正月、
細川勝元派(政長を支援)と
山名宗全派(義就を支援)の
対立が深刻化。
上御霊社に着陣した
政長を義就が攻撃し、
合戦となる
応仁の乱
(五月合戦、
 東軍に将軍旗)
応仁元年(1467)五月、
細川勝元側(東軍)と
山名宗全側(西軍)の間で
本格的な戦闘が勃発。
合戦後、細川勝元は
将軍旗を得ることに成功する
応仁の乱
(大内政弘西軍加入、
 足利義視出奔)
応仁元年(1467)八月、
周防の大名・大内政弘が
西軍に味方し、上洛
以後、一時的に西軍が優勢となる。
同月、東軍総大将だった
足利義視が出奔する
応仁の乱
(義視西軍加入、
 西軍南朝招聘計画、
 骨皮道賢登場)
応仁元年(1467)十一月
東軍の大将であった
足利義視は西軍に加入
その後、西軍は
後南朝後裔招聘案も出す。
一方、戦場では足軽が
活躍をはじめる
応仁の乱
(朝倉教景西軍加入、
 勝元・宗全の死)
文明三年(1471)、
越前の朝倉孝景が
西軍から東軍に
寝返り、
これ以降西軍は苦戦。
文明五年(1473)には
山名宗全・細川勝元が
相次いで死去

足利義尚が九代将軍に就任する
応仁の乱
(大内政弘・畠山義就下国、
 乱の終結)
山名宗全の死後、
西軍は斎藤妙春が
奮闘するが劣勢。
文明九年(1477)には
大内政弘が周防に帰国
畠山義就も河内に帰国し、
応仁・文明の乱は終結する
享徳の乱
(長尾景春の
 乱から
 都鄙合体まで)
文明八年(1476)、
享徳の乱の中、
長尾景春が上杉方を
裏切り挙兵。
文明十四年(1482)に
室町幕府と古河公方間の
和睦がようやく成立
長享の乱
(延徳二年の
 和睦まで)
文明十八年(1486)、
扇谷上杉定正が
家宰太田道灌を殺害
山内・扇谷両上杉家が
全面抗争となり、
延徳二年(1490)に
一時和睦するまで続く
義尚近江親征、
客死
文明五年(1473)
九代将軍義尚が就任。
長享元年(1487)、
成長した義尚は
近江に親征するが、
延徳元年(1489)年、
陣中に没してしまう
義材将軍就任、
第二次近江征伐
九代将軍義尚病死後、
延徳二年(1490)に
義視の息子・義材
将軍に就任。
延徳三年(1491)から
明応元年(1492)にかけては
義材も近江征伐を決行し、
これを成功させる
明応の政変 明応二年(1493)、
細川政元
将軍足利義材(=義稙)
に対してクーデタを実行。
義材を廃して
義澄を十一代将軍とする。
義材は幽閉された後、
脱出する
義材北陸彷徨 明応の政変後
脱出した足利義材は
北陸から、
京の細川政元・足利義澄と
対峙するが、
両者決め手がないまま
戦いが続く。
その後の
明応八年(1499)、
上洛を目指すも
敗退した義材は
周防の大内義興を頼る
永正の錯乱 明応の政変で
政治の実権を握った
細川政元だったが、
永正四年(1507)、
細川京兆家の家督争いの末、
政元は暗殺される。
翌永正五年(1508)
大内義興の下にいた
足利義尹
(=義材=義稙)
が、細川高国の協力を得て
上洛し、将軍足利義澄は
逃走する
両細川の乱
(如意ヶ嶽の
 合戦、
 船岡山の合戦)
義尹(義稙)が
義澄を追い落とし、
再度将軍の座に就いた後、
永正六年(1509)、
永正八年(1511)と
義澄方が巻き返しを
図るが、いずれも
義尹(義稙)・細川高国方が
最終的には勝利する
両細川の乱
(永正十六年、
 十七年の合戦)
永正十六年(1519)、
阿波にいた
細川澄元が挙兵。
足利義稙
(義尹改め)は
細川高国側から
澄元側へと寝返り
澄元が覇権を握る。
しかし翌永正十七年
(1520)には
細川高国が逆襲。
再び義稙-高国体制
両細川の乱
(義晴将軍就任)
大栄元年(1521)、
将軍足利義稙が
細川高国と対立し、
義稙は出奔。
高国は足利義晴
(義澄の子)を
十二代将軍に擁立する。
一方の義稙は、
阿波の細川晴元のもとで、
大栄三年(1523)死去。
養子の義維
後を継ぐ
堺公方成立 大栄六年(1526)、
細川高国の家臣と
阿波の細川晴元(澄元の子)が
細川高国を攻撃。
翌大栄七年(1527)
反高国派が
足利義晴・細川高国を
追いやって、
足利義維を公方とする、
堺幕府」が成立する
大物崩れ
(天王寺の合戦後、
 細川高国敗死)

堺幕府成立後も、
細川高国は堺幕府側と
戦いを続ける。
が、享録四年(1531)、
高国は摂津天王寺の合戦で
大敗し、捕らえられた後
自刃する
堺公方瓦解 堺公方の
細川晴元のもとで、
臣下の柳本賢治と
三好元長が対立。
賢治死後の
天文元年(1532)、
晴元が一向宗
(本願寺)をけしかけ、
三好元長
に追いやる
天文法華の乱 天文元年(1532)、
細川晴元は一向宗徒と
法華宗徒と戦わせ
山科の一向宗の根拠地は
焼失する。
一向宗徒は大坂に逃れ、
法華宗徒が京都を制圧する。
天文五年(1536)には
延暦寺と法華宗徒が戦闘。
大乱戦の末、
京都は炎上し、
法華宗徒は壊滅する
木沢長政の乱
(太平寺の合戦、
 長政敗死)
天文十年(1541)から
天文十一年にかけて、
細川晴元の重臣・
木沢長政が晴元に対し叛乱
太平寺の合戦で、
三好政長・三好範長(=長慶)
などによって打ち取られる
細川氏綱挙兵 天文十五年(1546)、
室町幕府を取り仕切る
細川晴元に対し、
細川高国の養子・
細川氏綱が挙兵
氏綱は晴元側を圧倒する。
これを見た将軍足利義晴も
晴元側から氏綱側に寝返る
舎利寺の合戦
(細川氏綱一時鎮圧)
挙兵した細川氏綱らに
三好政長三好範長(=長慶)ら
細川晴元側は大苦戦する。
しかし天文十六年(1547)、
舎利寺の戦い
三好範長(=長慶)が勝利。
晴元と遊佐長教が和睦し、
細川氏綱の蜂起は
一時鎮圧される
江口の合戦
(三好長慶、
 細川晴元を倒す)
天文十七年(1548)、
三好長慶(=範長)が
細川晴元叛旗を翻し、
晴元側の三好政長らと
戦闘に入る。
天文十八年(1549)六月、
摂津国江口の戦い
三好長慶側が圧勝
(三好政長は戦死)。
以後、畿内の政局は
三好長慶を中心に動くことになる
小泉城・霊山城の合戦
(遊佐長教暗殺から)


三好長慶・遊佐長教らは
江口の合戦で勝利し、
足利義輝・細川晴元を
京都から追い払った。
しかし
天文二十年(1551)には
遊佐長教は暗殺されてしまう。
その後、長慶と義輝は
一時和睦するが、
天文二十二年(1553)には
再び衝突。
霊山城の義輝に長慶側が
圧勝する
長慶相伴衆に
(松永久秀大和攻略)
永禄元年(1558)、
長慶と義輝(=義藤)は
合戦の後、和睦。
長慶の河内攻略、
松永久秀の大和攻略も
順調に進む。
長慶は義輝の相伴衆に
加えられた
久米田・
教興寺の合戦
三好長慶と畠山高政の争いは続き、
永禄五年(1562)三月、
久米田の戦いでは高政が勝利
長慶の弟・三好実休は戦死してしまう。
しかし、永禄五年(1562)五月の
教興寺の戦いは
三好長慶軍の大勝利となる
三好長慶の死 教興寺の合戦で勝利し、
畿内支配を盤石にした三好長慶。
しかし、永禄六年(1563)、
嫡男・三好義興が病死。
長慶の後継者は三好義継となる。
永禄七年(1564)、
長慶は実弟の安宅冬康を殺害。
そして長慶自身も
同永禄七年に生涯を閉じる