観応の擾乱(師直吉野進攻、直冬西国へ)

正平三年/貞和四年
(1348)一月、
四条畷の合戦で
楠木正行を倒した
高師直は吉野へ進攻。
南朝の後村上天皇は逃れ、
賀名生に移る。
その頃、中国地方の抑えとして
足利直冬が西国へ着任。
そして、
足利直義と高師直の対立が深まる

「室町政争戦乱史」目次
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師直吉野進攻

  • 正平三年/貞和四年
    (1348)一月二日、
    四条畷の合戦で
    楠木正行を倒す
    natsunishiki.com/shijounawate_no_kassen/
  • その後、一月八日、
    師直軍は
    聖徳太子廟を破壊した
  • 後村上天皇らは
    吉野を脱出
  • 正平三年(1348)
    一月十五日、
    高師直軍は
    南朝の本拠地吉野へ進攻。
    南朝の施設を焼き払う
  • 一方、
    難を逃れた
    後村上天皇は
    賀名生(あのう)を
    南朝の本拠地とした
  • 全体として、
    高師直の声望は
    高まっていた

足利直冬長門へ

  • 足利尊氏の実子・
    足利直冬(ただふゆ)は、
    直義の養子となっていた人物
  • 貞和五年(1349)四月、
    直冬は中国地方の
    探題として西国へ

直義vs.師直戦争へ

  • 貞和五年(1349)までに、
    足利直義と高師直の
    関係が極度に悪化
  • 直義の側近が
    失脚する事件が発生
  • 直義による
    師直暗殺未遂事件なども発生
  • いよいよ
    直義と師直の直接対決へ

補足

  • 直冬は実子・尊氏から
    異常に嫌われていた
    というのが昔からの
    (『太平記』)説
  • しかし、最近の本では、
    「”尊氏が直冬を嫌っていた”
    というのは

    フィクション
    とされている
  • 直義と師直の関係が
    いつから、なぜ
    悪化したのかも
    全く分からない
  • ステレオタイプな
    イメージでは、
    直義は
    「カタい人」
    である一方、師直は
    「礼儀とかをしきたりを
    気にしない人」
    で、合わなかった、
    という感じ
  • また、直義側には
    いかにも
    「鎌倉武士」
    という感じの人々が集まり、
    師直側には
    畿内などの
    「バサラ」な連中が
    集まった、とされる
  • しかし最近の本では
    そうとも言えないんじゃないか、
    と書かれることが多い

場所

参考書籍