河内嶽山城の戦い

享徳四年(1455)
家督を継いだ
畠山義夏(=義就)は、
すぐに義富を追って
大和で暴れまわる。
しかし
義就は足利義政の
怒りを買い、
義政は義富の弟・政長の
家督相続を認めて
義就討伐命令を出す。
それでも義就は、
寛正元年(1460)から
寛正四年(1463)まで、
河内嶽山城で徹底抗戦を
行なうのだった

「室町政争戦乱史」目次
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義就大和入り

  • 享徳三年(1454)
    家督を継いだ
    畠山義夏が
    大軍で京に進入
    義富は大和に逃れる。
    natsunishiki.com/hatakeyama_mochikuni/
  • 康正元年(=享徳四年)(1455)
    七月、義夏は、
    義富を追って大和に
    (この頃、義夏は
    義就」と改名)
  • その後、筒井・箸尾ら、
    大和の衆徒に勝利を重ねる
  • しかし、
    康正三年(1457)、
    義就が勝手に
    将軍の上意」として
    軍勢を出したことが
    義政の耳に入り、
    義政は激怒
    義就が奪った領地を返還させる
  • その後、
    長禄三年(1459)七月、
    山名宗全らのはたらきかけで
    義富の赦免が決定
  • しかし九月頃、
    義富が死去してしまう
  • が、義富の弟・
    政長が擁立され、
    寛正元年(1460)九月には
    義政も政長の家督相続を認める

河内嶽山籠城戦

  • 義就は河内へ逃亡
    義政は義就討伐命令を出すが、
    義就は河内嶽山城
    籠城を始める
  • 長禄・寛正の飢饉
    起こるなか、
    義就の戦いは続く
  • 寛正四年(1463)正月、
    嶽山城は落城。
    その後義就は
    高野山を経て吉野へ
  • 寛正四年末、
    大赦により、
    義就は幕府から赦免されるが、
    義就はその後も吉野で
    雌伏の時を過ごす

補足

  • 義就が大和で
    ブイブイ言わせてる間に
    赤松則尚が山名に倒される、
    関東で享徳の乱が始まって
    古河公方が成立する、
    コシャマインの戦いが起きる、
    などなどいろいろあった
    natsunishiki.com/akamatsu_norinao/
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  • その後、義就が
    激怒されてから
    河内にこもっている間にも、
    赤松氏遺臣が神璽を取り戻す、
    今参局が失脚・自害する、
    など、やっぱりいろいろあった
    natsunishiki.com/chouroku_no_hen/
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  • 義就はむかしは
    「よしなり」と読まれたが、
    現在は「よしひろ」と
    読むのが普通
  • 長禄・寛正の飢饉のなか、
    幕府相手に戦う義就は
    ある種ヒーローだったのか、
    少女が、
    「神々が義就に力を貸すため
    嶽山城に向かった」
    と託宣を述べている。
    もしかしたら人々は
    楠木正成の幻影を
    見ていたのかもしれない
  • ところで
    義就が家督を相続してから、
    何年間も大和で戦っている、
    というのがイメージできないのだが、
    途中で帰ったりもしているのだろうか

場所

  • 河内嶽山城
    大阪府富田林市。
    近鉄長野線滝谷不動駅が最寄り。
    楠木正成が築城したらしい
    cmeg.jp/w/castles/5541

参考書籍