文保元年(1319)、
鎌倉幕府から朝廷に
皇位継承に関する要請が伝えられる
(文保の和談)。
文保二年(1318)、
尊治親王(大覚寺統)が即位
(後醍醐天皇)。
後醍醐天皇は
朝廷復権に向け、
精力的な政策を打ち出す
「室町政争戦乱史」目次
natsunishiki.com/muromachi_seisoushi/
文保の和談
- 後嵯峨法皇の時代にはじまった
持明院統と大覚寺統の争いは、
五十年近く続いていた
natsunishiki.com/ryoutou_tetsuritsu_1/
natsunishiki.com/ryoutou_tetsuritsu_2/ - 文保元年(1317)四月、
幕府から朝廷に使者が送られ、
「皇統については、
話し合いできめてほしい」
と伝える - その後、幕府側は、
「花園天皇の後は
尊治親王(大覚寺統)が即位し、
その皇太子は
邦良親王(大覚寺統)」
という案を示した
(文保の和談) - 幕府案に
持明院統は当然不満だったが… - 文保元年(1317)九月、
伏見法皇死去。
持明院統は中心人物を
失ってしまう
後醍醐天皇即位
- 文保二年(1318)、
花園天皇(持明院統)が退位。
尊治親王(大覚寺統)が即位した
(後醍醐天皇)。
皇太子は邦良親王
(故・後二条天皇の子息) - 実は、後宇多法皇
(後醍醐天皇の父)は、
「(後醍醐天皇ではなく、)
邦良親王の系統に
継がせたい」
と考えていた - そのため、
後醍醐天皇の即位は、
「後醍醐天皇の系統は一代限り」
という条件つきだった
後醍醐天皇親政
- その後、
元亨元年(1321)、
後宇多法皇は院政をやめ、
後醍醐天皇の親政がはじまる - 万里小路宣房、
吉田定房に加え、
北畠親房を重用
(「後の三房」) - 裁判機関である
記録所を設置。
また、検非違使庁を充実させた - こうして
朝廷を充実させていく
後醍醐天皇は、
やがて倒幕を本格的に
目指すようになる
補足
- 晩年の後宇多法皇は
真言密教に傾倒していた - 後醍醐天皇は立太子の時点で
二十一歳、
即位の時点で三十一歳で、
当時の天皇としては
年齢が高かった
参考書籍
- 「歴史REAL
南北朝」
洋泉社
中丸満 = 該当部分
www.amazon.co.jp/dp/4800312817 - 「日本の歴史11
蒙古襲来と徳政令」
講談社
筧雅博 = 著
bookclub.kodansha.co.jp/title?code=1000023527 - 「日本の歴史8
南北朝の動乱」
集英社
伊藤喜良 = 著
books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-195008-3