正中の変

元亨四年(1324)、
後醍醐天皇が倒幕計画を
企てるが、実行直前に
幕府に発覚。
天皇側近の日野資朝は流罪となる
しかし、
後醍醐天皇自身は不問とされ、
帝位を保つのだった

(実はこの話には、
異説があるのだが、
以下では最も一般的な
理解について記述する。
異説については後述)

「室町政争戦乱史」目次
natsunishiki.com/muromachi_seisoushi/

倒幕計画

  • 文保二年(1318)の即位後、
    後醍醐天皇は
    側近の日野資朝、俊基らと
    鎌倉幕府倒幕計画に
    邁進する
  • 資朝らは、
    土岐頼兼、多治見国長らを
    抱き込むことに成功
  • 元亨四年
    =正中元年(1324)、
    「九月二十三日の
    北野天満宮北野祭の前日に
    六波羅探題が手薄になった
    ところを襲撃する」
    という計画だった

発覚、処分

  • しかし、
    鎌倉幕府六波羅探題が
    これを察知
  • 元亨四年=正中元年
    (1324)九月十九日未明、
    頼兼、国長らを
    六波羅探題が襲撃。
    四条で合戦
  • のち、
    頼兼、国長らは自害する
  • 日野兄弟は捕縛され、
    資朝は佐渡に流される
  • 万里小路宣房が
    鎌倉へ。
    「天皇は関与していない」
    と弁明
  • 後醍醐天皇は不問とされた
  • この一連の動きを
    正中の変」という

補足

  • 一味の一人、
    土岐頼員(よりかず)が
    自分の妻に倒幕計画を
    話してしまったことから、
    幕府に発覚した、とされる
    (「太平記」)
  • 幕府の六波羅探題の要人・
    伊賀兼光も計画に
    加わっていたとも
  • この時期、
    蝦夷管領・安藤家の叛乱も
    起きていた。
    幕府が処分を甘くしたのは、
    この安藤家の叛乱が
    あったからとも

異説

  • 実は後醍醐天皇は
    この時点では
    倒幕など全く考えておらず、
    持明院統の策略だという説がある
    (だから、処分なしとなった)

参考文献