日本国王良懐

正平十六年/康安元年
(1361)の懐良親王の
大宰府入城後、
幕府は斯波氏経・渋川義行を
九州に派遣するが敗退。
懐良親王は明から
「日本国王良懐」
とされ、冊封を受ける

「室町政争戦乱史」目次
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斯波氏経敗退

  • 全国的に南朝が劣勢になる中、
    正平十六年/康安元年
    (1361)八月、
    九州の懐良親王はついに
    大宰府に入城
    ここから征西府は
    全盛期を迎える
  • 翌正平十六年/康安元年
    (1361)、
    鎮西管領斯波氏経が
    九州に上陸
  • しかし、氏経は苦戦。
    正平十八年/貞治二年
    (1363)、氏経は京に撤退する
  • これがきっかけで、
    氏経の兄・高経は
    幕府内での地位を
    危うくしてしまった

渋川義行敗退

  • 正平二十年/貞治四年
    (1365)にいは、
    渋川義行が九州探題に就任。
    九州を目指す
  • しかし、
    義行は九州に入ることすら
    できなかった

日本国王良懐

  • 正平二十三年/貞治七年
    (1368)、元が滅び、
    洪武帝(朱元璋)が明を建国
  • 建徳元年(1370)から
    建徳二年(1371)にかけての
    通交で、懐良親王は明に、
    「日本国王良懐」
    とされ、冊封を受けた
  • 一方、
    前年の貞治六年(1367)には
    将軍・足利義詮が死去。
    この後、九州情勢は新たな展開へ

参考書籍