小山義政の乱

康暦二年(1380)から
永徳二年(1382)にかけて、
下野国の有力豪族・小山義政
鎌倉公方・足利氏満に対し、
三度に渡って決起する。
最終的に義政は滅ぼされたが、
息子の若犬丸は逃亡した

「室町政争戦乱史」目次
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「室町関東政争戦乱史概略
(結城合戦まで)」
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小山義政、宇都宮基綱を滅ぼす

  • 将軍足利義満の時代、
    14世紀後半-。
    小山義政は下野国の
    有力豪族・小山氏の当主で、
    祗園城(小山城)を本拠地としていた
  • 康暦二年(1380)五月、
    義政は別の有力豪族・
    宇都宮基綱と合戦。
    激戦の末、
    基綱以下、多くの者を
    死に追いやる
  • この義政の行動は、
    鎌倉公方の命令を無視していた

最初の討伐軍

  • 同康暦二年(1380)六月、
    鎌倉公方・足利氏満
    小山氏討伐軍を派遣
  • 各地での戦闘は
    鎌倉公方軍が優勢。
    祗園城を包囲する
  • 同康暦二年(1380)九月、
    義政降伏
    氏満もこれを認める
  • しかし、義政は
    その後も氏満の下に
    馳せ参じなかった

二度目の討伐軍

  • 永徳元年(1381)二月、
    氏満は再び小山氏討伐軍を派遣。
    四月頃戦闘が始まる
  • 同永徳元年(1381)十一月、
    義政は鎌倉公方方に降伏
    氏満もこれを認める
  • 息子の若犬丸
    小山氏当主として
    氏満の下に出仕する
  • しかしその後も
    氏満軍の陣で火災が発生するなど、
    不穏な動きは収まらなかった

最後の蜂起

  • そして翌永徳二年(1382)三月、
    義政は祗園城を焼いて逃亡。
    糟尾山中(栃木県鹿沼市)で挙兵
  • その後義政は
    櫃沢城(ひつざわ)に
    落ちのびる
  • 同翌永徳元年(1381)四月、
    敵方に取り囲まれた
    義政は櫃沢で自害する
  • しかし、
    義政の息子・小山若犬丸は
    逃亡していた…
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補足

  • この少し前に、京で
    康暦の政変
    があった。
    この事件の際、
    京都の混乱をつき、
    鎌倉公方・足利氏満が
    参戦の動きを見せたが、
    結局動けなかった。
    「小山義政の叛乱は
    このタイミングを狙った
    のではないか」
    という説がある
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場所

参考書籍