応仁の乱(義視西軍加入、西軍南朝招聘計画、骨皮道賢登場)

応仁元年(1467)十一月
東軍の大将であった
足利義視は西軍に加入
その後、西軍では
後南朝後裔招聘案も
たびたび出される。
一方、戦場では足軽が
活躍をはじめた

「室町政争戦乱史」目次
natsunishiki.com/muromachi_seisoushi/

義視一時帰京

  • 応仁元年(1467)八月、
    大内政弘上洛。
    以降、応仁の乱は、
    一時的に西軍が優勢に
    natsunishiki.com/ounin_no_ran_3/
  • 同応仁元年(1467)八月、
    東軍総大将・
    足利義視が出奔し伊勢へ
  • 同応仁元年(1467)九月には
    足利義政の説得により、
    足利義視は京に戻る

義視西軍加入

  • しかし、
    同応仁元年(1467)閏十月頃、
    足利義政は、
    文正の政変で失脚していた
    伊勢貞親を復帰させる
  • 貞親は義視に謀反の罪を
    着せようとした人物で、
    義視からみれば不倶戴天の敵だった
  • 同応仁元年(1467)十一月には
    「三魔」の一人で
    義視と仲が良かった
    有馬元家が暗殺される
  • 結局、
    同応仁元年(1467)十一月、
    義視は西軍に迎えられた
  • これ以降、東軍と西軍は、
    「東幕府」
    「西幕府」
    という扱いになっていく
  • 後花園法皇からの
    「治罰の綸旨」
    が出され、
    義視は朝敵となってしまった

西軍の南朝後裔招聘計画

  • 正統性にやや難のあった西軍は、
    文明二年(1470)五月、
    西軍は南朝の末裔を
    迎えようとする
  • しかしこのときは
    西軍の畠山義就が
    反対し頓挫
  • さらに
    文明三年(1471)閏八月、
    小倉宮聖承の子孫とされる
    「西方新主」
    が迎えられそうになる
  • が、これも
    義視が反対して頓挫

足軽登場

  • 話はやや戻って
    応仁二年(1468)三月十五日、
    東軍方の足軽が
    下京を放火
  • このときのリーダーが
    骨皮道賢
    という男で、
    このとき歴史に初登場する
  • 道賢は三月二十一日に
    西軍方によって打ち取られた
  • 足軽は応仁の乱で
    はじめて登場する。
    その中には、
    長禄・寛正の飢饉や
    経済難から逃れた人々もいたらしい

参考書籍