赤松満政の乱

大河内家の赤松満政は
嘉吉の乱後も播磨に
領国を持っていた。
しかし、
文安元年(1444)、
山名持豊がこれを奪う。
満雅はこれを不服として
合戦するも敗死

「室町政争戦乱史」目次
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流れ

  • 赤松満政は
    赤松惣領家の分家の
    大河内家の者で、
    義教時代は近習として
    権力の中枢にいた。
    嘉吉の乱の際も
    満政は追討側に立ち、
    乱後も播磨国東三郡の
    代官を務めていた
    (満政と満祐はいとこだが、
    大河内家と惣領家は
    対立していた)
  • しかし山名持豊が
    播磨国全土を取ろうと
    幕府に対して満政を誹る
  • 嘉吉四年(1444)正月、
    播磨東三郡は満政から持豊に
    与えられる
  • 満政はこれを不満として
    文安元年(1444)十月、
    惣領家・赤松満祐の弟の
    赤松則尚と合流し、
    播磨へ下国
  • 文安二年正月、
    播磨東三郡で満政と山名が合戦
    (山名は後花園天皇から
    治罰の綸旨を得ていた)
  • 戦いに敗れた満政は、
    同じ一族の有馬赤松家の
    赤松持家を頼り摂津へ
    (満政と持家もいとこ)
  • 持家はいったん受け入れるが、
    細川勝元軍が派遣されると
    満政を殺害
  • これにより、
    播磨全土は山名の支配下に
  • そして、則尚は
    行方をくらます

補足

参考書籍