上杉禅秀の乱

応永二十三年(1416)、
前関東管領・上杉禅秀(氏憲)が、
鎌倉公方・足利持氏らを襲撃
禅秀は鎌倉を制圧する。
室町幕府(将軍義持)は
持氏側を支持。
持氏らが反撃し、
応永二十四年(1417)、
敗れた禅秀は自害する

「室町政争戦乱史」目次
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「室町関東政争戦乱史概略
(結城合戦まで)」
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持氏幼少時代

  • 応永十八年(1411)、
    犬懸上杉氏憲(禅秀)、
    関東管領に就任
  • 鎌倉公方・足利持氏は
    幼少だった
  • そこで、氏憲(禅秀)と、
    足利満隆(持氏の叔父)が
    政務を執る
  • 山内上杉家と
    犬懸上杉家(禅秀ら)対立

禅秀叛乱

  • その後、持氏が成長し、
    応永二十二年(1415)、
    三月から本格的に政治に参加
  • 同年四月、
    禅秀の家臣・越幡六郎の
    所領を
    持氏が没収する
  • これに激怒した
    禅秀は関東管領を辞任
    後任は山内上杉憲基だった
  • 翌応永二十三年
    (1416)十月二日、
    氏憲(禅秀)が持氏邸を襲撃
    持氏は駿河に逃亡し、
    憲基は越後に敗走する。
    禅秀は鎌倉を制圧
  • 禅秀は足利満隆
    その息子・持仲
    担いでいた

禅秀敗退、自害

  • 室町幕府
    (将軍・足利義持)

    持氏支持を決定
  • その後、
    山内上杉憲基、
    足利持氏が反撃
  • 翌応永二十四年
    (1417)正月、
    持氏方が鎌倉に攻め入り、
    禅秀、満隆らは自害

補足

場所

参考書籍

以上、全部名著である