江口の合戦(三好長慶、細川晴元を倒す)

天文十七年(1548)、
三好長慶(=範長)が
細川晴元叛旗を翻し、
晴元側の三好政長らと
戦闘に入る。
天文十八年(1549)六月、
摂津国江口の戦い
三好長慶側が圧勝
(三好政長は戦死)。
以後、畿内の政局は
三好長慶を中心に動くことになる

「室町政争戦乱史」目次
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三好長慶、細川晴元と訣別

  • 天文十七年(1548)、
    細川晴元、三好範長(=長慶)に、
    遊佐長教攻撃を命令
  • しかし範長(=長慶)は
    長教の娘を妻に迎える。
    範長と長教の間の
    同盟が成立
  • さらに、範長(=長慶)は
    細川氏綱を擁立し、
    晴元に対して叛旗を翻す
  • この頃、範長は
    三好長慶
    と改名
  • 長慶は反晴元の味方を集める
  • 晴元側も三好政長を
    中心に対抗
    (長慶と政長は
    同じ三好一族だが別の系統)

江口の戦い

  • 天文十八年(1549)六月、
    摂津国江口で三好長慶側と
    細川晴元・三好政長側が激突
    (長慶側の指揮官は
    長慶の弟・十河一在(そごうかずまさ))
  • 三好長慶(十河一在)側が圧勝
    三好政長は戦死
  • 晴元は嵯峨を経て
    近江坂本に逃亡。
    足利義晴・義藤(=義輝)
    親子も同行
  • 以後も晴元は
    長慶に対抗し続けるが…
  • 天文十九年(1550)五月、
    足利義晴は病死してしまう
  • そして江口の戦い以降、
    畿内の政局は三好長慶
    主導することになる

補足

  • 江口の戦い直前、
    六角義賢の大軍勢が
    晴元側の援軍として南下していた。
    これを知った三好長慶方が
    その前に江口の三好政長方に
    総攻撃をかけ、
    江口で大合戦となった

場所

注意

  • 上の地図は、
    参考文献に挙げた
    「戦国の活力」
    「畿内・近国の戦国合戦」
    「三好長慶」
    をもとに本ブログ筆者が作成
    (誤記等あれば
    ご指導ください)

参考書籍