舎利寺合戦(細川氏綱、一時鎮圧)

挙兵した細川氏綱らに
三好政長三好範長(=長慶)ら
細川晴元側は大苦戦する。
しかし天文十六年(1547)七月、
舎利寺の戦い
三好範長(=長慶)が勝利
晴元と遊佐長教が和睦し、
細川氏綱の蜂起は
一時鎮圧される

「室町政争戦乱史」目次
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舎利寺の戦い

  • 天文十五年(1546)に
    挙兵した細川氏綱らに
    細川晴元側は大苦戦
    (細川晴元側の武将には、
    三好政長・三好範長=長慶等もいた)
  • 氏綱に同調する
    細川国慶京都を制圧
  • 足利義晴と義藤(=義輝)父子も
    晴元側から氏綱側に寝返っていた
  • 一方、晴元側の武将・
    三好範長(=長慶)は、讃岐から
    十河一在(そごう・かずまさ)、
    安宅冬康の軍勢を呼び寄せていた
  • 天文十六年(1546)二月以降、
    三好範長(=長慶)が
    怒涛の反撃を開始。
    三月には摂津三宅城を落城させる
  • 同天文十六年(1547)三月、
    義晴・義藤(=義輝)親子は
    勝軍山城に籠城し、
    晴元側と合戦を開始
  • 同天文十六年(1546)七月、
    摂津国舎利寺で晴元側の
    三好範長(=長慶)が
    遊佐長教(氏綱側)に勝利
  • 義晴は城に火をつけて
    近江坂本に逃走
  • 十月、細川国慶が
    京都の大将軍(地名)にて討死
  • 天文十七年四月、
    細川晴元と遊佐長教が和睦し、
    この戦乱はひとたび集結するが…

場所

注意

  • 上の地図は、
    参考文献に挙げた
    「戦国の活力」
    「畿内・近国の戦国合戦」
    「三好長慶」
    をもとに本ブログ筆者が作成
  • それにしても、
    この時期の戦は軍勢が
    やたらダイナミックに
    動くのだが、一体どうなっているのか。
    例えば、大将は一度居城に
    帰っているのか。
    詳しい方はご指導ください

参考書籍