細川氏綱挙兵

天文十五年(1546)、
室町幕府を取り仕切る
細川晴元に対し、
細川高国の養子・
細川氏綱が挙兵
氏綱は晴元側を圧倒する。
これを見た将軍足利義晴も
晴元側から氏綱側に寝返る

「室町政争戦乱史 目次」
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天文十二年の挙兵

  • 天文十二年(1543)七月、
    和泉国で、
    細川氏綱(うじつな)が、
    細川晴元に対して挙兵
    (氏綱は細川高国の養子)
  • 同七月、堺で
    晴元側が氏綱側が合戦し
    晴元側が勝利
    (晴元側の中心勢力は
    三好範長(=長慶)など)
  • しかし、
    氏綱は河内国八尾を
    拠点として抵抗を続け、
    天文十四年(1545)にも
    南山城で晴元側と
    戦闘を繰り広げている

天文十五年の挙兵

  • 天文十五年(1546)八月、
    細川氏綱がみたび挙兵。
    氏綱側には、河内守護代・
    遊佐長教なども加勢しており、
    緒戦で晴元側を圧倒する
  • 同天文十五年九月、
    氏綱側の細川国慶(くによし)が
    京都を制圧
  • 同九月、細川晴元は、
    三好政長とともに
    丹波へ逃走する

将軍義輝就任、将軍父子寝返り

  • 天文十五年(1546)十二月、
    近江坂本にて、足利義晴が息子の
    義藤(=義輝)に征夷大将軍の座を譲る
    (義藤は十歳だった)
  • 実は、この時点で、
    義晴・義藤(=義輝)父子は
    晴元側から氏綱側に
    寝返っていたとされる

補足

  • 一方、
    天文十五年八月から十月にかけて、
    三好範長は讃岐から
    十河一在(そごう・かずまさ)、
    安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)らの
    軍勢を呼び寄せていた

場所

参考書籍