足利義嗣出奔、死亡(上杉禅秀の乱畿内篇)

上杉禅秀の乱のさなかの
応永二十三年(1416)、
将軍義持の弟・
足利義嗣が出奔
尋問の結果、
「禅秀と義嗣が共謀」
「複数の有力守護も加担」
といった疑惑が浮上する。
応永二十五年(1418)
義嗣は殺害され、
真相は謎のままに

「室町政争戦乱史」目次
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「室町関東政争戦乱史概略
(結城合戦まで)」
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義嗣出奔

  • 応永二十三年
    (1416)十月、関東で
    上杉禅秀の乱が勃発
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  • 乱のさなかの
    十月二十九日早朝、
    京都の将軍義持の弟・
    足利義嗣が行方不明に
  • その後、義嗣は
    高雄(神護寺?高山寺?)に
    いることが分かる
  • その後拘束され、
    近臣らとそれぞれ
    尋問を受けることに

義嗣殺害

  • 義嗣は
    「上杉禅秀の乱は
    自分も加担」
    と証言(?)
  • さらに、
    義嗣近臣の語阿(ごあ)が、
    細川満元、
    斯波義重、
    赤松義則らも
    乱に加担
    と証言する
  • 応永二十五年(1418)
    正月二十四日、
    富樫満成が義嗣を殺害
    (自害とも)
  • これに抗議し、
    管領細川満元は
    出仕を拒否

富樫満成殺害

  • 同応永二十五年
    (1418)六月、
    富樫満成が、
    畠山満家の弟満慶に
    嫌疑をかける
  • しかし、
    故・義嗣の愛妾が
    「満成が義嗣に
    謀反をそそのかした」
    と証言
  • 十一月、
    満成は高野山に
    逃亡するが…
  • 翌応永二十六年
    (1419)二月、
    義持の命を受けた
    畠山満家が満成を殺害

補足

  • 謎の多すぎる事件で、
    「実際に有力大名が
    叛乱に加担していた。
    発覚すると幕政は破綻するので、
    満成が切り捨てられた」
    という説もある
  • 義嗣近臣の
    山科教高・日野持光らは
    加賀国へ流罪となり、
    移送中に殺害されている

参考書籍