明応の政変

明応二年(1493)、
将軍足利義材
畠山基家追討のため、
河内に出陣。
そのさなか、
細川政元がクーデタを実行。
義材を廃し、
義澄を新将軍とした。
義材側の畠山政長は自害。
義材は幽閉された後、
脱出する

「室町政争戦乱史」目次
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畠山基家

  • 応仁の乱後も
    畠山義就と
    畠山政長は
    主に河内を舞台に
    戦い続いていた
  • 延徳二年(1490)十二月に
    義就は死去
  • その後は
    義豊(基家)が継ぎ、
    引き続き河内誉田城を
    拠点としつづける

足利義材河内出陣

  • さて、
    室町幕府第十代将軍・
    足利義材は、
    明応元年(1492)の
    第二次近江征伐に勝利。
    権威を高めた
    かのように見えた
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  • この頃、
    義材が重用していたのは、
    葉室光忠という貴族
  • 明応二年(1493)、
    将軍足利義材は、
    畠山政長の進言で、
    河内に畠山基家追討を宣言
  • これらの
    義材の動きに、
    細川政元は不満を
    持っていたという
  • また、もともと
    義材を擁立していた
    日野富子も、
    あるときから
    義材を嫌うようになっていた

細川政元挙兵

  • 明応二年(1493)二月、
    足利義材は自ら
    畠山基家追討軍を
    率いて河内へ
  • 同年四月二十二日夜、
    義材が河内にいる中、
    細川政元が京都で挙兵
  • 翌日、義稙の弟、
    慈照院周嘉が殺害される
  • 政元は義材を
    将軍から下ろし、
    足利政知の子・
    香厳院清晃
    新将軍に就任させる
    (清晃は還俗し、
    足利義遐となる。
    後の足利義澄)
    (義遐=よしとお)

畠山政長自害、義材投降

  • 政元挙兵の報を聞いた
    河内の追討軍では、
    畠山政長を除く
    ほとんどの将が帰京し、
    政元・義澄方につく
  • 閏四月、
    政元は義材・政長追討軍を派遣
  • 政長は
    息子・尚順を逃がし、
    自害
    する
  • 義材も投降
  • 京都に送られた
    義材は龍安寺に
    幽閉される
  • 葉室光忠は
    処刑されてしまった

義材毒殺未遂事件、脱出

  • 幽閉中の義材の
    食事に毒が盛られる事件が発生。
    配膳の者は、
    日野富子の命令
    と自白する
  • それを受け、政元は
    義材を
    部下の上原正秀の屋敷に移す
  • が、六月二十九日夜、
    嵐の中、
    側近たちの協力により
    義材が脱出

補足

  • 延徳三年、
    細川政元は北陸方面を巡行。
    関東に行く予定で、
    堀越公方足利政知との
    面会も予定されていたが、
    政知の病気(後死没)などもあり、
    北陸からそのまま帰洛した
  • 政変の前にはすでに
    細川政元と畠山基家との間に
    密約があった
  • この事件で
    隠れた重要な役割を
    果たしているのが
    伊勢貞宗という人。
    あの、文正の政変で
    失脚した、
    伊勢貞親の子である
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  • そして、
    この政変の直後、
    伊豆でも争乱が勃発する

場所

参考書籍