長禄合戦(武衛騒動)

長禄二年(1458)から
三年にかけ、
斯波義敏と
宿老・甲斐常治が、
越前で合戦。
将軍の命令で義敏は
家督を剥奪され、
斯波義廉が擁立されるが
なおも対立は続く

「室町政争戦乱史」目次
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それまでの斯波氏

  • 斯波氏の家督は
    初代・高経から、
    高経
    →義将(高経の子)
    →義重(義将の子)
    →義淳(義重の子)
    と、受け継がれてきた
  • (高経を初代として、)
    四代目の義淳は
    三十七歳で死去。
    跡取りだった息子・
    義豊はすでに
    前年に死去していた
  • 五代目として
    義淳の弟・義郷が
    僧から還俗して相続するが、
    二年後、馬の事故で死亡-
    と、不幸が続く

持種と甲斐常治の台頭

  • 永享八年(1436)、
    義郷の子で五歳の義健が
    斯波家の家督を継ぐ。
    家臣団が実務を
    取り仕切ることになるが…
  • 重臣・甲斐常治
    (かい・じょうち)と
    一門の斯波持種が対立し、
    持種派が常治の
    襲撃を企てる事件も発生

義敏家督相続

  • 享徳元年(1452)九月、
    義健が十八歳で死去。
    持種の息子・斯波義敏
    後を継ぐ。
    こうして対立は
    持種+義敏vs.常治の争いに
  • しかし、
    甲斐が将軍足利義政に訴え、
    義政は義敏に不利な裁定を下す
  • これに激怒した義敏
    康正三年
    (長禄元年)(1457)正月、
    東山東光寺に出奔
  • 長禄元年十一月には
    義敏方と甲斐方が戦闘。
    これは義政の命令で
    義敏と甲斐が一時和睦する

関東出陣命令無視

  • 長禄二年(1458)六月、
    斯波義敏と甲斐常治に
    義政から鎌倉出陣命令が出る
    (足利成氏追討のため)
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  • しかし、
    長禄二年七月から
    越前で義敏方と
    甲斐(+朝倉孝景)方の間で
    大規模な合戦
    決着はつかなかった
  • 結局、
    義敏・甲斐とも

    関東には出陣せず

常治死去、義廉家督相続

  • 長禄三年四月から
    義敏方と甲斐方が
    敦賀城で再度戦闘
  • 八月に甲斐常治は
    死去するが、
    幕府は息子・甲斐敏光の
    守護代職を安堵
  • 義敏は
    周防の大内教弘のもとに
    落ちのびていたが、
    長禄三年七月から八月、
    将軍の命令で
    義敏は守護職を剥奪され、
    義敏の実子・義寛(松王丸)が
    家督を継ぐことに
  • さらに
    寛正二年(1461)九月には
    義政の命で
    松王丸も廃される
  • 渋川義鏡の実子が
    養子として迎えられ、
    新たな当主・
    斯波義廉となる
  • 寛正四年に
    日野重子死去に伴う大赦で
    義敏・松王丸は
    赦免されるが
    その後も対立は
    やまなかった

補足

  • 甲斐常治の
    「常治」は法名で、
    「じょうち」
    と読むのが一般的
  • 斯波持種は
    (高経を初代として)
    二代目義将の弟である、
    義種の孫
  • 斯波義敏の赦免は
    畠山義就赦免と
    同じタイミング
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  • この一連の争いのことを
    長禄合戦
    武衛騒動
    と呼ぶことがある。
    また、寛正六年(1465)の
    両派の争いを
    「武衛騒動」
    としている本もある
  • この時点での甲斐常治を、
    最初の戦国大名に近い存在
    としている本もある
    (「戦争の日本史9」)

参考書籍