享徳の乱(長尾景春の乱から都鄙合体まで)

文明五年(1476)、
享徳の乱のさなか、
山内上杉家家宰の家系だった
長尾景春が上杉方を
裏切り挙兵。
一時、景春が足利成氏と結び、
上杉家を窮地に陥れるが、
太田道灌が何とか鎮圧。
その後、文明十四年(1483)に
室町幕府と古河公方が和睦して、
享徳の乱が終結する

(室町政争戦乱史
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流れ

  • 文明五年(1473)、
    山内上杉家家宰の
    長尾景信死去。
    景信の子・景春ではなく、
    景信の弟の忠景が後を継ぐ
  • 文明八年、
    不満を抱いた景春
    五十子から鉢形に移り挙兵
  • 翌文明九年正月、
    景春が五十子の
    山内上杉顕定を襲撃。
    顕定は上野に逃走
  • 太田道灌など擁する
    上杉方も反撃。
    文明九年五月の
    針谷原・用土原
    (深谷市)の合戦では
    上杉方が景春に勝利し、
    一時は景春を追い詰める
  • しかし、ここで
    足利成氏が景春を支援
    上杉方(総大将顕定)と
    数か月にわたって対陣
  • 文明十年正月、
    上杉家と成氏が一時停戦
    (顕定が、室町幕府-成氏間の
    交渉の仲介をすることを
    条件としていた)
  • 文明十二年六月、
    景春の最後の拠点・
    日野城(秩父市)が落城
    (景春は没落するも生存)
  • この頃には、
    越後守護上杉房定を通じた
    室町幕府-成氏間の交渉が
    進められていた
    (長尾景春を通じた交渉もあった)
  • ここで懸案となったのは
    堀越公方足利政知の処遇だが、
    堀越公方は伊豆を得ることで決着
  • 文明十四年(1483)、
    成氏と室町幕府との和睦が成立
    (都鄙合体)

補足

  • 景春が家督を継がなかった際、
    太田道灌は、景春の不満を
    少しでも和らげようと
    いろいろ案を巡らせたらしい
  • 文明十年の和睦の後、
    顕定は和睦交渉をほとんどやらず、
    成氏は不満を抱いたとのこと
  • 忠景が家宰就任してから
    景春が五十子を退去する
    あたりの時期に
    伊豆今川家で家督争いがあり、
    太田道灌もこれに介入した。
    そして、ここで北条早雲
    (として知られる、伊勢新九郎宗瑞)
    が歴史に初登場するわけである

参考書籍