畠山家家督争い(持国死去まで)

畠山持国の後継は
弟・持富となる予定だったが、
突然、持国が実子・義夏を
後継者に指名。
持富の子・弥三郎(義富)と、
持国・義夏親子の間で、
享徳三年(1454)から戦闘となる

「室町政争戦乱史」目次
natsunishiki.com/muromachi_seisoushi/

義夏元服

  • 将軍義勝時代から、
    将軍義政の時代初期にかけて
    管領を務めた
    畠山持国には男子がおらず、
    弟の持富を養子とし、
    家督を相続させようとしており、
    永享九年(1437)に
    男子・八幡法師が誕生した後も、
    その方針は変わらなかった
  • ところが
    文安五年(1449)、
    突如それを撤回し、
    八幡法師を新たな後継者に指名。
    翌年、八幡法師は元服し、
    義夏
    となる
    (のちの「義就」)
  • 将軍義政も
    義夏の家督相続を承認する
  • 宝徳四年(1452)、持富死去
  • しかし、畠山家家臣の中に持富の子・
    義富を擁立しようとする一派がいた-

享徳三年の合戦

  • 享徳三年(1454)四月、
    持国と義富派の戦闘が発生。
    持国が勝利し、義富・義富派は逃亡する。
    ここで、長年のあいだ持国と
    勢力争いを繰り広げてきた、
    細川勝元と山名持豊が義富を助ける
  • 同年十一月、義富派が持国邸を襲撃
    義富派が勝利し、持国と義夏は逃亡
    持国は失脚
  • これを受け、
    将軍義政が義富の家督相続を認める
    (ただし、勝元の責任も問い、
    勝元に家臣を殺させた)
  • さらに義政は、
    山名宗全の追討命令を出す
    が、勝元が宗全を擁護し、
    宗全は但馬に隠居することに。
    これが、
    赤松則尚の乱
    へと繋がる
    natsunishiki.com/akamatsu_norinao/
  • 同年十二月、
    宗全隠居の隙をついて
    義夏が大軍を引き連れて京へ
    義富は逃亡
  • 義政も再度、義夏を認める
  • 翌享徳四年三月、畠山持国死去
    義夏が家督を相続したが…
    natsunishiki.com/dakeyamajou/

補足

  • 鎌倉公方足利成氏に対して
    融和的だった畠山持国の失脚を受け、
    足利成氏の立場は危うくなる
    natsunishiki.com/kyoutoku_no_ran_1/
  • 弥三郎の本名は、
    本によって
    不明とも
    「義富」とも
    「政久」ともある。
    他の人がみんな諱なのに
    弥三郎だけ弥三郎なのも
    変なので、ここでは
    「義富」と書いておきたい
  • 畠山持国は
    曇天になると
    気が滅入って
    人に会おうと
    しなかったという
    (「室町人の精神」)。
    今で言う気象病だった
    のかもしれない

参考書籍