永享の山門騒動(「万人恐怖」)

永享五年(1333)から
永享六年にかけて
将軍・足利義教に
比叡山延暦寺が嗷訴。
義教は経済封鎖などで
徹底的に対決。
永享七年(1435)二月、
首謀者を誅殺する。
翌日、延暦寺衆徒は
根本中堂を焼き、
集団自殺を行なった

「室町政争戦乱史」目次
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発端

  • 永享五年(1433)、
    延暦寺の衆徒が
    「飯尾為種(山門奉行)と光聚院猷秀が
    不正を行なっている」
    と強訴
  • 義教は山門に対し、
    強硬手段を目論む
  • しかし、宿老会議は
    強硬手段に反対
  • これを受け、義教は
    為種・猷秀を流罪に
    (実際は二人は身を隠したのみ)
  • しかし、延暦寺は許さず、
    嗷訴を続けた

経済封鎖、和睦成立

  • 永享六年(1434)八月、
    義教は
    「延暦寺の領地を
    すべて占拠せよ」
    と命令。
    さらに湖上も封鎖し、
    延暦寺への食料供給を断つ
  • しかし同永享六年(1434)十二月、
    宿老会議は山門の宥免を主張。
    議長役の三宝院満済を通じ、
    「自分たちは屋形を焼いて国に下る」
    と強硬に訴えた
  • 永享六年(1434)十二月、
    首謀者四人が上洛し、
    義教と対面

衆徒斬首、根本中堂炎上

  • 翌永享七年(1435)二月四日、
    管領・細川持之が
    山門衆徒のリーダー格を
    出頭させる
  • 持之は出頭した二人を
    その場で斬首
  • 翌二月五日、
    山門衆徒は根本中堂を焼き、
    集団焼身自殺
    炎は洛中からも見えたという
  • 義教は山門の噂を禁じた。
    ある商人がこの騒動について
    語ったところを逮捕し、
    即刻斬首
  • 伏見宮貞成は日記に
    万人恐怖、言う莫れ言う莫れ
    と書いた
  • その後、五月、
    このとき難を逃れた
    首謀者の一人・
    座禅院珍全が
    伊勢で処刑される
  • 四年後、
    同じく首謀者の一人・
    円明坊兼宗も吉野で誅殺された

補足

  • この騒動のさなかの
    永享六年(1434)
    山名時煕が失脚
  • この翌年の
    永享七年(1435)六月、
    三宝院満済死去
    (享年五十八)。
  • この満済・時煕の死が
    その後の義教の行動に
    拍車をかけたと言われることがある
  • このとき
    「延暦寺は
    鎌倉公方・足利持氏と
    手を握っている」
    という風説があった

参考書籍