両細川の乱(永正の錯乱から義尹上洛まで)

明応の政変後、
細川政元が政治の実権を握る。
しかし、永正四年(1507)、
細川京兆家の家督争いの末、
政元は暗殺される。
翌永正五年(1508)
周防の大内義弘の下にいた
足利義稙が上洛し、
将軍足利義澄は逃亡する

「室町政争戦乱史」目次
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義澄と政元

  • 明応二年(1493)、
    細川政元らが
    十代将軍・
    足利義材
    (義稙)を廃し
    十一代将軍として
    足利義遐(義澄)を
    擁立する
    (明応の政変)
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  • その後、
    将軍義高
    (義遐改め)(義澄)
    のもと、
    細川政元、伊勢貞宗らが
    実権を握る
  • しかし、成長するにつれ
    将軍義澄(義高改め)と
    政元の亀裂は深まる
  • 文亀二年(1502)には、
    義澄が岩倉に籠り、
    政元・貞宗との対面を
    拒否する事件も

細川京兆家家督争い

  • その政元は
    修験道に凝り、
    妻帯をしなかった
    (細川政元ら、
    細川家の本家を
    「京兆家」と呼ぶ)
  • 政元には三人の養子がいた。
    一人は一族の分家・
    野州家出身の細川高国
    もう一人は公家の
    九条家出身の細川澄之
    さらにもう一人は
    阿波細川氏出身の細川澄元
  • かねてから
    家督相続を巡って、
    細川家家臣の間で
    内紛が起こっていた

細川政元暗殺

  • 永正四年(1507)
    六月二十三日、
    細川政元が
    澄之派の香西元長ら
    によって
    殺害
    される(享年四十二)
  • しかし八月には
    澄元と高国の連合によって、
    澄之・香西元長らが討ち取られ、
    澄元・高国派が勝利。
    澄元が家督をつぐ

足利義尹上洛

  • この畿内の混乱の中、
    義尹(よしただ)(義稙)が
    大内義興に擁立されて
    上洛を目指す
  • さらに細川高国も
    これに協力
  • 永正五年(1508)四月、
    義尹(義稙)は
    難なく上洛し、
    将軍職に復帰
  • 義澄・澄元は
    それぞれ近江に逃亡する

補足

  • 十一代将軍
    足利義遐(義澄)の
    元服式で、
    細川政元は
    烏帽子をかぶるのを
    嫌って拒否した
  • ほかにも政元は、
    義澄が、
    朝廷拝賀や
    後柏原天皇即位の礼を
    実施しようと提案しても
    「無益」と拒否している
  • 政元は、
    かなり変人扱い
    されていたようで、
    軍紀物には
    「魔法を使う」
    と書かれているほど

参考書籍