建武式目、金ヶ崎城の戦い

延元元年(1336)十一月、
足利尊氏は政治基本方針
「建武式目」
を制定。
一方、新田義貞が守る
越前金ヶ崎城は
延元二年(1337)三月に落城。
尊良親王は死亡。
恒良親王は捕縛されるが、
新田義貞は生き延びる

「室町政争戦乱史」目次
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建武式目制定

  • 延元元年(1336)十一月、
    足利尊氏は
    十七か条からなる
    「建武式目」
    を制定する
  • 「尊氏の問いに、
     二階堂是円が
     答えた」
    という形の
    政治の基本方針
    (法律ではない)
  • 第一条のテーマは、
    「本拠は鎌倉におくべきか、
    京に置くべきか」。
    内容を見ても、
    かなり迷っている
    感じがうかがえる
  • これをもって、
    「室町幕府成立」
    とされる

金ヶ崎城落城

  • 延元元年(1336)十月、
    新田義貞は
    後醍醐天皇と袂を分かち、
    越前金ヶ崎城
    (恒良親王、尊良親王も)
  • 延元二年(1337)正月、
    足利尊氏は、
    高師泰を
    新田義貞追討に派遣する
  • 金ヶ崎城、杣山城を拠点に、
    義貞軍は必死に抵抗
  • しかし、同延元二年三月、
    義貞が杣山城に行った隙に
    足利軍が金ヶ崎城を落城させる
  • 尊良親王は自害
  • 恒良親王は捕縛され、
    京都へ護送される
  • 義貞の息子・新田義顕も戦死
  • しかし、義貞は逃げのび、
    再起を図ることに

場所

参考文献