義視還俗、義尚誕生と文正の政変

寛正五年(1464)、
将軍義政の跡継ぎとして、
弟の義視が選ばれるが、
寛正六年(1465)には
日野富子が男子を出産
(のちの義尚)。
一方、義政側近の
伊勢貞親と季瓊真蘂は、
斯波義敏の復権などを
試みるが、
山名・細川両派からは
猛反発。
そして、
文正元年(1466)九月、
義視に謀反の疑いを
かけようとした
貞親と真蘂は、
逆に失脚してしまう

「室町政争戦乱史」目次
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義視還俗と義尚誕生

  • 寛正五年(1464)、
    将軍義政の跡継ぎとして、
    浄土寺門跡となっていた
    弟の義尋(ぎじん)が還俗し、
    のち、
    足利義視
    となる
  • 義視は義政の妻である
    日野富子の妹・
    日野良子を妻とすることに
  • しかし、
    翌寛正六年(1465)十一月、
    義政の正室・日野富子が
    男子を生む(のちの義尚)
  • この頃の幕政は、
    ・伊勢貞親と季瓊真蘂ら、
    側近グループ
    ・細川勝元
    ・山名宗全
    らが牽制しながら
    主導していた
  • その一翼を担う
    伊勢貞親が、
    義尚の乳母(養育係)となり、
    義尚は貞親邸で
    育てられることに

斯波氏家督交代

  • 以前、
    長禄合戦(武衛騒動)
    と呼ばれる対立の末、
    斯波氏の家督は
    義敏とその子松王丸から、
    義廉に移っていた
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  • 貞親と真蘂は、
    勢力拡大を目指して
    斯波義敏を管領にしようと画策し、
    文正元年(1466)七月、
    斯波氏の家督を
    義廉から義敏に替える
  • しかし、
    家督を奪われた義廉の母は
    山名宗全の娘であり、
    この人事に
    宗全は猛反発

大内政弘赦免

  • さらに貞親は、
    以前幕命に違反して
    処分を受けていた
    大内政弘を赦免する
  • 長年大内氏と
    ライヴァル関係にあった
    細川勝元が不満

文正の政変、貞親・真蘂失脚

  • 文正元年(1466)九月五日、
    伊勢貞親が、
    「義視に謀反の疑いがある」
    と義政に讒言
  • この情報を耳にした
    義視は助けを求めて
    細川勝元邸に脱出。
    さらに朝には
    山名宗全邸にも入る
  • 翌日、
    山名・細川ほかの
    諸大名が猛抗議し、
    貞親・真蘂ら側近勢力は
    一斉に失脚し、
    京都から逃走
    (斯波義敏も)
    (貞親の逃亡先は近江)
  • これをきっかけに
    義政による将軍親政構想
    完全に破綻する

補足

  • 義視は今出川亭に
    居住したことから、
    「今出川殿」
    と呼ばれていた
  • 大内政弘は
    伊予の河野通春を
    助けたことで
    幕命に反していた
  • この頃、
    義視にも男児が誕生。
    後の
    YOSHITANE(義材)である
  • 貞親・真蘂・義敏らと
    同時に失脚・逃走した人の中に、
    長禄の変で復帰した
    赤松政則もいる
  • 季瓊真蘂は
    蔭涼軒の記録簿
    蔭涼軒日録
    をずっと書いていたが、
    さすがに
    この政変の日は
    途中で切れている
  • 「応仁の乱の元凶は、
    わが子を将軍にしたい富子と、
    将軍になりたい義視の対立」
    という見方は、
    現在ではかなり弱まっている
    (その要素が全くないか
    どうかはともかく)
  • では、この時点で、
    義政・富子・義視・良子ら、
    それに貞親や真蘂、
    さらに勝元や
    宗全といった人々が、
    いったい次の将軍を誰にして、
    どういう体制にしようと
    思っていたのか、
    いろいろ本を読んでも
    さっぱり分からない
    (おそらく、
    研究者も完全には
    分かっていない)
  • また、この時点では
    細川勝元と山名宗全は
    協力しあっており、
    「じゃあどうして
    応仁の乱がおきたのか」
    という答えが出ないのだ

参考書籍