明徳の乱(内野合戦、山名氏清敗死)

山名氏は多くの領国を持ち、
「六分の一殿」
と呼ばれるほどだった。
が、明徳二年(1390)、
将軍・足利義満に対し、
山名氏清・山名満幸が叛乱。
氏清らは敗れ、
山名氏は所領を減らしてしまう

「室町政争戦乱史」目次
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「六分の一殿」

  • 山名氏は観応の擾乱で
    直義側から
    幕府側に下った一族
  • その後、領国を拡大し、
    足利義満の頃には
    十一か国の守護を務め、
    「六分の一殿」
    と呼ばれるまでになっていた
    (日本は六十六か国)

山名氏清・満幸

  • 明徳元年(1390)、
    山名氏で内紛。
    義満は山名氏清・満幸らを
    通じて介入する
  • しかし、
    明徳二年(1391)、
    義満は山名氏清に激怒
  • また、山名満幸の家臣が
    後円融上皇の所領を侵す
    事件が発生。
    これにより満幸は
    出雲を没収されてしまう
  • 山名満幸(婿)が
    山名氏清(舅)に
    挙兵を誘ったという

内野合戦

  • 氏清は和泉から、
    満幸は丹波から京に進軍
  • 明徳二年(1391)
    十二月三十日、
    幕府軍と開戦
  • 氏清は二条大宮で
    大内義弘と交戦。
    氏清の弟・山名義数が
    義満本陣への突入を
    試みるが、討死
  • 氏清は
    二条猪熊の合戦でも敗退
  • 氏清は敗走したのち、
    一色詮範勢に打ち取られた
  • 満幸は内野で交戦し、
    敗れて山陰へ逃れる
    (内野=うちの)
    (鎌倉時代までの大内裏の跡地)

戦後

  • これにより、
    山名氏の所領は
    因幡・但馬・伯耆の
    三箇国のみとなった
  • 義満は内野に
    北野経王堂という
    仏堂を建立。
    そこで戦没者鎮魂行事
    「北野万部経会」
    を行なった

補足

  • 山名満幸方と
    幕府方の戦いは激戦だった。
    幕府方・畠山基国の鎧兜は
    敵に切り落とされたという
  • 山名時煕は
    義満の馬廻勢として
    戦闘に参加し、
    山名氏清の陣に斬り込んだが、
    囲まれ、手勢の殆どを失い脱出
  • 氏清の首級を進上された
    義満は、
    「天の許しなき謀反
     おこしてなる物の果てを見よ、
     人々」
    と語ったという
  • その後、山名時煕は
    義教時代まで
    政界の重鎮として活躍する

場所

参考書籍