今川了俊九州戦役

応安四年(1371)、
今川了俊(貞世)が
対九州南朝戦に派遣される。
了俊は元中八年/
明徳二年(1391)、
九州南朝の最後の拠点を倒し、
九州南朝の戦いが終結する

「室町政争戦乱史」目次
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義詮の死/細川頼之、了俊を派遣

  • 貞治六年(1367)、
    将軍・足利義詮が死去。
    足利義満が将軍となり、
    細川頼之が
    それを補佐する体制に
  • この頃、九州は
    南朝・懐良親王がほぼ制圧
  • 幕府が懐良親王に
    対抗するため派遣した
    斯波氏経・渋川義行は
    相次いで敗退していた
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  • 細川頼之は、
    切り札・今川貞世(了俊)
    九州探題として派遣する

今川了俊九州戦役

  • 建徳二年/応安四年
    (1371)二月、
    九州探題今川了俊が
    京都から出陣
  • 文中元年/応安五年
    (1372)八月、
    了俊は早くも
    大宰府を奪還する。
    十二年ぶりのことだった
  • その後、
    天授三年/永和三年
    (1377)八月、
    今川了俊は菊池家の本拠を攻撃。
    菊池家は大きな打撃を受ける
  • しかし、
    了俊は地元九州薩摩の
    島津家と対立
    この対立はずっと続き、
    了俊の九州戦役は困難を極める

九州南朝終結

  • 弘和三年(1383)三月、
    懐良親王が死去
    (九州南朝のトップは、
    それ以前から
    九州に来ていた、
    「後征西将軍宮」
    に交代していたらしい)
  • 元中八年/明徳二年(1391)、
    了俊が九州南朝最後の拠点
    八代を陥落させ、
    九州南朝の戦いがほぼ終結
  • ついに南北朝の合一が迫っていた

補足

  • 後征西将軍宮は、
    後村上天皇の皇子・
    良成親王(王)とされる
  • 厳密にいつ、
    九州南朝が終了したのか、
    というのは、実は難しい

参考書籍