赤松則繁追討

嘉吉の乱後に渡海し、
その後帰国していた
赤松則繁を、
文安五年(1448)、
赤松則尚が討つ。
が、その褒賞を巡って
山名持豊と細川讃州家が
一触即発の事態に

「室町政争戦乱史」目次
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流れ

  • 赤松満祐の弟・
    赤松則繁は、
    嘉吉の乱で敗北後、
    九州の菊池氏を頼り、
    さらにその後倭寇となって
    高麗へ渡っていた
    (嘉吉三年の高麗使者の
    情報で明らかに)
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  • その後帰国した則繁は
    文安四年(1448)正月に
    少弐教頼と肥前に上陸し、
    大内教弘と戦って敗れ、
    河内に潜む
  • 一方、赤松満政の乱で
    満政側について敗れて
    行方をくらましていた
    赤松則尚は、和泉で
    細川持常(讃州家)に

    かくまわれていた
    (則繁と則尚は
    おじ・おいの関係)
  • 文安五年(1448)五月、
    赤松則尚は持常の説得に応じて
    則繁を討つ
    これにより、
    則尚は美作・備前・備中を
    受け取る
    という話で、
    幕府政所執事・
    伊勢貞国も
    同意していた
  • しかし、
    山名持豊がこれを拒否
    細川讃州家と山名家は
    一触即発の事態に
  • しかし、
    三宝院義賢、
    細川勝元、
    細川持国らの交渉で
    開戦には至らず
    則尚も幕府に出仕

補足

  • この時代の細川家には、
    右京兆家(たぶん本家?)、
    野洲家、
    和泉藩極守護家、
    和泉半国守護家、
    阿波守護家、
    備中守護家、
    淡路守護家があった。
    阿波守護家=讃州家
    ということらしい
    (ややこしい)
  • その後、
    康正元年(1455)五月、
    則尚は武力で播磨奪回を試みる

参考書籍