義尚近江親征、客死

文明五年(1473)の
将軍宣下後、
幼い将軍義尚は
父・義政が後見するが、
成人後、両者は対立。
義尚は威信を高めるため、
長享元年(1487)、
六角高頼討伐に
近江に親征するが、
延徳元年(1489)年、
陣中に没してしまう

「室町政争戦乱史」目次
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義尚将軍宣下

  • 応仁・文明の乱が続く
    文明五年(1473)、
    義尚が十歳で
    将軍宣下を受ける。
    この時の実権は
    義政が握っていた
  • その後、
    応仁・文明の乱は
    文明九年(1477)まで続く
  • 義尚は
    乱終結後の
    文明十一年(1479)に
    判始(補足参照)を行ない、
    本格的に政治を行なう
    立場になる。
    が、若き将軍義尚と
    父義政の関係は
    あまりうまくいかなかった

六角高頼の近江

  • さて、
    応仁・文明の乱が
    はじまったとき、
    幕府は六角高頼
    守護職を剥奪し、
    いとこの政尭に与える
  • 応仁・文明の乱の初期は
    政尭を京極持清が助け、
    高頼vs.政尭+京極持清
    という戦いに
  • その後、
    持清が死去すると
    高頼が大奮戦し、
    結局、乱後も高頼が
    守護職を安堵された
  • その後、山門などが
    「高頼に領地を奪われた」
    と幕府に訴えていた

義尚親征と死去

  • 将軍の威信を
    高めたい義尚は、
    長享元年(1487)、
    自ら軍を率いて
    近江に親征する
  • しかし、
    六角高頼は行方をくらまし、
    ゲリラ戦を展開
  • しかし、二年後の
    延徳元年(1489)、
    義尚は近江鈎(栗東市)にて、
    陣中で病死してしまう

補足

  • 判始(はんのはじめ)とは
    新しく主(例えば将軍)の座に
    就いた人が書類に花押を
    入れ始めること。
    その人のその職における
    本格的な仕事始めを示す
  • 義尚は猿楽が
    大好きだったので、
    興福寺の尋尊は、
    鎌倉幕府末期の得宗で
    田楽が好きだった
    北条高時になぞらえ、
    「先代(鎌倉幕府)は
    田楽にて滅びぬ。
    当代(室町幕府)は
    猿楽にて滅ぶか」
    と書いている
  • 義尚はお気に入りの
    猿楽師を侍に取り立てる。
    さらに、この猿楽師に
    三条公躬の娘を娶せようと
    二日で十七回(!)
    使者を送ったらしい
    (「室町人の精神」)
  • 義尚の征伐の対象には
    朝倉孝景など
    他の者も候補に挙がっており、
    「誰でもよかった」
    という部分がある
  • 実は陣没の前年に義尚は
    「義煕」
    と改名している
  • 義尚は死の一年前には
    健康を害していたらしく、
    日野富子は近江は義材に任せ、
    なんとか義尚を
    京都で療養させられないかと
    提案していた
  • 義尚の辞世は
    手を折りて
     過ぎこし代々を
     数ふれば
     むなしき床の
     夢にぞありける
    「(過ぎてきた時代を
    指を折って数えると、
    床のなかの、
    むなしい夢だった)」
  • これに、父義政は
    埋れ木の
     朽ち果つべきは
     残りゐて
     若枝の花ぞ
     散るぞかなしき
    「(埋もれ木で
    朽ち果てるべきなのが
    残り、若い枝の花が
    散るのは哀しい)」
    と返している
    (訳と改行は筆者)
  • 愛息・義尚の死後、
    富子は人目もはばからず
    号泣したとのこと
  • 六角高頼も
    畠山義就系の
    すごい奴なんじゃないか
    と思わせるのだが、
    本にもあんまり記述がない

場所

参考書籍