武蔵野合戦(三上皇拉致、後光厳天皇即位)

正平七年/観応三年
(1352)閏二月、
反幕府勢力が相次いで
京都と鎌倉を制圧。
光厳・光明・崇光の三上皇らは
拉致されてしまう。
幕府は京都・鎌倉奪還後、
後光厳天皇を擁立することに

「室町政争戦乱史」目次
natsunishiki.com/muromachi_seisoushi/

反幕府軍鎌倉制圧

  • 観応の擾乱に敗れた
    足利直義は
    正平七年/観応三年
    (1352)二月二十六日、
    鎌倉で死去
    natsunishiki.com/satsutayama_kassen/
  • 同正平七年/観応三年
    (1352)閏二月、
    上野国の新田義興が挙兵。
    足利尊氏は鎌倉を撤退し、
    義興が鎌倉を制圧する
  • 信濃国の南朝宗良親王も挙兵
  • さらに、
    奥州の南朝北畠顕信も
    常陸へ進出する
  • 三月には、
    足利尊氏が鎌倉を
    再奪回している

三上皇拉致

  • その頃、
    同正平七年/観応三年
    (1352)閏二月、
    京都では北畠親房に奉じられた
    後村上天皇が八幡の石清水八幡宮へ。
    さらに楠木正儀も
    京都へ進軍する
  • 幕府側の
    足利義詮・細川顕氏らが
    正儀と抗戦するが、敗北。
  • 義詮は近江へ脱出
  • 北朝の
    光厳上皇・光明上皇・崇光上皇、
    皇太子直仁親王は
    南朝に捕らえられてしまう

後光厳天皇即位

  • 同正平七年/観応三年
    (1352)三月、
    幕府軍が反撃し、
    鎌倉・京都とも幕府側が奪還
  • 石清水八幡宮で
    抵抗を続けていた南朝軍も
    五月には撤退する
  • 幕府は光厳上皇皇子・
    弥仁王を天皇とすることに
  • しかし、
    「治天」がいなかったため、
    西園寺寧子を治天
    (史上唯一の女性治天)
  • こうして、
    正平七年/観応三年
    (1352)八月、
    弥仁王が即位する
    (後光厳天皇)

補足

  • 後光厳天皇の系統は、
    息子・後円融天皇、
    その息子・後小松天皇、
    さらにその息子・称光天皇と
    つながっていく。
    が、称光天皇の子はおらず、
    崇光天皇の曾孫の
    後花園天皇となった
    [北畠満雅の乱]
    natsunishiki.com/kitabatake_mitsumasa_no_ran/

参考書籍