康暦の政変(細川頼之失脚)

管領・細川頼之が
斯波義将と対立。
南朝討伐軍の失敗などもあり、
頼之の立場は悪化する。
康暦元年(1379)、
反頼之派が御所を包囲。
細川頼之は管領を辞任し、
讃岐に帰国する。

このタイミングで
鎌倉公方・足利氏満は
上洛を企てるが、
関東管領・上杉憲春が自刃し、
それを諫める

「室町政争戦乱史」目次
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「室町関東政争戦乱史概略
(結城合戦まで)」
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貞治の政変

  • 二代将軍・足利義詮の時代の
    貞治五年(1366)八月、
    管領斯波義将
    その父・斯波高経失脚し、
    越前に下国。
    世に言う、
    貞治の政変
    である
  • その後、
    貞治六年(1367)に
    高経は病死。
    義将は許され、京都に復帰

越中国太田庄での衝突

  • 三代将軍・足利義満の治世となって
    永和三年(天授三年)(1377)、
    越中国で守護代・斯波義種と
    国人たちが対立
  • 国人たちは
    細川頼之の所領であった
    越中国太田庄に逃げ込み、
    保護を求める
  • 斯波義種方の軍勢が
    太田庄に乱入
  • これに細川頼之は激怒。
    斯波家との間に
    緊張が高まる

南朝決起、頼基敗退

  • 幕府側の混乱を見て、
    南朝軍が紀伊国で決起し、
    細川業秀を襲撃
  • 頼之は弟の細川頼基を
    総大将とした
    討伐軍を派遣。
    (山名や赤松が参加)
  • 頼基は南朝軍が
    撤退したと見て、
    自分も帰ろうとする
  • しかし、
    そこを南朝軍に襲われ、
    幕府軍は総崩れとなり、
    大敗北を喫してしまう
  • これによって
    反頼之派がさらに勢いづく

大和追討軍分裂

  • そのころ、
    大和国の興福寺衆徒が
    義満に十市遠康追討を要請
  • 永和五年=康暦元年(1379)
    正月から二月にかけ、
    義満は大和に
    十市追討軍を派遣する
    (その中には、
    斯波義将、土岐頼康などがいた)
  • 追討軍は公然と頼之の排斥を唱える
  • 中でも土岐頼康は
    美濃に帰国してしまった

頼之辞任の意向、慰留される

  • これをうけ頼之は、
    将軍・足利義満に
    「自分の管領辞任
    「自分は四国讃岐に帰国する」
    と申し出た
  • この時は義満が頼之を慰留
  • 頼之は義満に対し、
    土岐頼康、佐々木(京極)高秀の追討を
    要請する
    (土岐、佐々木は反頼之派だった)
  • 義満は土岐・佐々木討伐軍の
    派遣を決定。
    大和派遣軍に
    京都への帰還を命令する
  • しかし、
    斯波義将は義満の命令を無視
  • 佐々木高秀、土岐頼康も挙兵
  • ここで義満は高秀、頼康を赦免する

将軍御所包囲、頼之失脚

  • 康暦元年(1379)閏四月二十四日、
    反頼之派の軍勢が京都に集結し、
    将軍御所を包囲
  • 閏四月、
    義満は土岐・佐々木の
    討伐を断念
    頼之を罷免する

頼之下国

  • 康暦元年(1379)、
    頼之は自邸に火をかけ、
    出家し、四国に下る
  • 後任の管領には
    斯波義将が就任

鎌倉公方の陰

  • この政変のタイミングで、
    鎌倉公方足利氏満は、
    軍勢を率いて上洛し、
    義満にとって代わろうとしてた(らしい)
  • が、康暦元年(1379)四月、
    関東管領上杉憲春が自害
    氏満の目論見を制止した

頼之追討軍

  • 康暦元年(1379)九月、
    伊予守護河野氏に対して
    頼之追討の命令が下る
  • しかし十一月、
    頼之側が先制攻撃。
    当主の河野通直を討ち取る
  • 結局頼之は赦免されたが、
    頼之自身は四国にとどまった

参考書籍