赤松持貞切腹事件(赤松満祐下国)

応永三十四年(1434)、
将軍義持の命により
赤松満祐の所領が没収され、
赤松持貞に与えられそうになる。
満祐は激怒し、緊迫の事態に。
しかし、最終的には、
逆に持貞が失脚し、
切腹することになる

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赤松満祐下国

  • 応永三十四年(1434)
    九月、赤松義則死去。
    赤松満祐が家督相続
  • このとき、将軍義持が、
    満祐の領国・播磨を没収し、
    義持の側近の赤松持貞に
    与えようとする
  • 満祐、これに抗議し、
    屋敷に火をかけ播磨へ下国
  • これに義持は激怒し、
    山名時煕らに追討を命じる
  • 管領畠山満家が止めるが、
    義持は聞かず
  • 他の幕閣、
    三宝院満済や細川持元らも
    総じて義持に批判的だった

赤松持貞切腹

  • そんなある日、
    義持を御所の門前で
    待ち受けている者が…
  • その者が、
    「足利義満の側室・
    高橋殿からの文」
    として出した書状には、
    持貞の女性関係の醜聞
    書かれていた
  • 今度は義持は持貞に対して激怒。
    義持の命令により持貞は切腹

補足

  • 持貞失脚に先立って、
    畠山満家が
    将軍家女房にも
    働きかけ工作したという
  • 守護グループ
    vs.近習グループ
    という観点で
    みることができる。
    守護グループの満家は
    将軍の家督相続介入を
    望まなかった
  • 持貞から相談を受けた三宝院満済は、
    持貞を高野山に逃がそうとした
  • 満済が義持に、
    「持貞を切腹させる
    ほどでもないのでは?」
    と言ったのに対し、義持は、
    「すでに神に対して、
    “持貞を極刑に処す”
    と誓ってしまった」
    と答えたという
  • この事件の翌年、
    義持は死去
  • そしてこの事件から七年後、
    赤松満祐は、再び屋敷に火をかけ、
    下国することになる
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参考書籍