応仁の乱(朝倉教景西軍加入、勝元・宗全の死)

文明三年(1471)、
越前の朝倉孝景が
西軍から東軍に
寝返り、
これ以降西軍は苦戦。
文明五年(1473)には
山名宗全・細川勝元が
相次いで死去

足利義尚が九代将軍に就任する

「室町政争戦乱史」目次
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朝倉孝景西軍加入

  • 大内政弘の西軍加入。
    東軍総大将だった
    足利義視の西軍加入

    足軽の登場などで
    複雑化する応仁の乱
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  • 文明三年(1471)、
    朝倉孝景が西軍から東軍に
    寝返る。
    もともと孝景は
    西軍の斯波義敏に従っていて、
    西軍の主要戦力だった
  • 孝景の領国・越前は
    畿内と日本海を結ぶ
    重要地点だった
  • 西軍は日本海側からの
    兵士や物資の
    供給を断たれ、
    苦労することに

東西和平交渉

  • 文明四年(1472)頃から
    水面下で何度か
    東西和睦工作が
    行なわれていた
  • しかし、東軍内では
    赤松政則が和睦に反対
  • 赤松は山名氏から
    播磨国以下の旧領を
    取り戻すことに成功しており、
    和睦すればそれがなくなる
    可能性が高かった

宗全、勝元の死

  • 和睦交渉は
    うまくいかず、
    文明四年(1472)五月、
    山名宗全が自殺未遂
  • 文明五年(1473)三月、
    山名宗全死去
  • これ以降、
    南朝末裔皇子も
    行方が分からなくなる
  • 文明五年(1473)五月、
    細川勝元も死去
  • 文明五年(1473)十二月、
    足利義尚が将軍に就任
  • 文明六年(1474)四月、
    勝元の子・細川政元と
    宗全の子・山名政豊が
    単独講和を結ぶ
  • その後もそれ以外の
    東西両軍の間では
    戦闘は続いた

参考書籍