禁闕の変

嘉吉三年(1443)七月、
七代将軍義勝死去の隙をつき、
後南朝勢力が内裏を襲撃
天皇は逃れるが御所は焼け、
宝剣と神璽が奪われる
首謀者はすぐに
鎮圧・捕縛・殺害。
が、神璽は長く見つからなかった

「室町時代政争史」目次
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流れ

  • 嘉吉三年(1443)七月、
    七代将軍・足利義勝が
    十歳で死去
    (のちに三春=義政が
    八代将軍に就任)
  • 同年九月二十三日夜中、
    後花園天皇の内裏清涼殿を
    後南朝勢力が襲撃
    首謀者は
    「南朝の後胤」
    とされる金蔵主・通蔵主兄弟
  • つき従ったのは
    「後鳥羽天皇の後胤」
    とされる鳥羽(源)尊秀、
    廷臣・日野有光などだった
  • 後花園天皇は脱出。
    しかし内裏は火を放たれ、焼失。
    宝剣と神璽(勾玉)は盗まれる
  • 後南朝勢力は比叡山に逃れるが、
    治罰の綸旨が出されていたこともあり、
    比叡山は受け入れを拒否。
    後南朝勢力は根本中堂に立て籠もる
  • 二十四日から
    追討軍が押し寄せ、
    金蔵主・日野有光はここで死亡
    尊秀は逃亡
  • 捕縛された通蔵主
    四国に流される途中殺害される
  • 剣はすぐに発見されるが、
    神璽は長く行方不明のままだった
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補足

  • 応永三十二年(1425)三月、
    日野有光は義持に嫌われ
    出家を強要された。
    また、永享六年(1434)年に
    裏松義資事件で
    義教に罰せられていた
  • 脱出した際、天皇は女房姿
  • 剣は清水寺千手堂奥の仏前に
    打ち捨てられていた
  • 日野有光の子・資親も斬首。
    関わりは不明
  • また、
    南朝嫡流の小倉宮聖承の子・
    観修寺教尊も隠岐へ配流。
    やはり関わりは不明。
    教尊は義教の猶子
    でもあったのだが
  • この後、
    管領畠山持国の分国の奉公衆に
    協力者がいたとして、
    持国は管領辞任を表明
    (その後慰留され撤回)
  • 尊秀は???
  • 山名・細川・赤松遺臣などの
    関与が噂されたが、
    実態は不明

場所

参考書籍