応永の乱(大内義弘敗死、足利満兼挙兵失敗)

応永六年(1399)、
西国の大大名・大内義弘が
足利義満に対し叛旗を翻し、
堺で籠城。
同時に鎌倉公方・足利満兼も
軍勢を動かす。
しかし、堺は落城し、義弘は敗死。
満兼も兵を引き上げる

「室町政争戦乱史」目次
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「室町関東政争戦乱史概略
(結城合戦まで)」
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大内義弘の疑念

  • 大内義弘は西国の大大名で、
    かつ堺を手に入れ、
    対外貿易を独占しつつあった
  • 応永三年(1396)末、
    九州で少弐・菊池らが挙兵
  • 将軍足利義満は、
    大内義弘に追討を命じる
  • 弟の満弘が戦死するが、
    義弘は何とか鎮圧に成功
  • しかし、このとき、
    義満が少弐・菊池らに
     義弘を討伐させようと
     している
    という噂があった
  • また、応永四年(1397)、
    義満の北山殿造営の際にも
    義弘は
    「我が家は戦だけが得意なので
    工事はできない」
    と断っている

絶海中津の説得

  • 応永六年(1399)十月、
    大内義弘は義満の命令を聞かず、
    堺にとどまる
  • 義満は使者として、
    禅僧・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)
    義弘のもとに送った
  • 義弘が絶海中津に、上記の
    「少弐・菊池は義満が
    義弘殺害のために使った噂がある」、
    「戦死した満弘に十分な恩賞がない」
    ことなどを訴えた
  • さらに義弘は
    「すでに、
     鎌倉公方・足利満兼様と
     ”義満の悪政をただす”、
    と約束
    している」
    と発言
  • 義満、説得を断念し、
    絶海中津を帰還させる

  • 義弘、堺に城郭を構え、
    十一月二十九日、開戦
  • 激戦の末、
    十二月二十一日、
    総攻撃を受け、義弘戦死
    乱は終結する

足利満兼の挙動

  • 上杉憲定が反対する中、
    鎌倉公方・足利満兼は、
    表向き
    「義満救援のため」
    と称して軍勢を動かす
  • 満兼の軍勢は武蔵府中へ
  • しかし、
    義弘敗死の報を聞き、
    応永七年三月、
    鎌倉に戻る
  • その後、満兼は
    三嶋大社に、
    義満への服従を示す
    誓紙を出すことになる

補足

  • 義弘と満兼を結び付けていたのは
    今川了俊?
  • なぜ足利満兼は
    東海道を西へ行かなかったのか
  • 同時に
    「なぜ義弘は自国で戦わなかったのか」
    も謎で、「室町人の精神」は
    「義弘の老臣が
    義満との和睦の可能性を残したかったから」
    とする
  • 一方、「室町の覇者」は、
    義弘と満兼は「御所巻き」をして
    政道を正したかっただけなのだ、
    としている
  • 義弘側についたのは、
    山名、楠木など
    「かつて義満に
    敗れたものたちの亡霊」
    で、この戦争を、
    足利直義派の後継者が敗れ去った、
    「観応の擾乱の最終決着」
    としたのが桃崎有一郎

参考書籍