長禄の変(赤松氏再興)

概要

嘉吉の乱で滅ぼされた
赤松氏の遺臣が
後南朝勢力に潜入。
禁闕の変以降、
行方不明になっていた神璽を、
長禄二年(1458)に取返し、
赤松氏再興を果たす

(「室町時代政争史」目次
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潜入開始まで

  • 嘉吉元年(1441)の
    嘉吉の乱で
    赤松惣領家が滅んだ後、
    赤松家旧臣は
    牢人となっていた
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  • 一方、
    嘉吉三年(1443)の
    禁闕の変以降、
    後南朝に奪われた
    神璽(勾玉)の行方も
    杳として知れなかった
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  • そこで、
    「赤松氏遺臣が
    神璽を奪い返せば、
    赤松氏が再興される」
    ということになった

襲撃、失敗

  • 康正二年(1456)
    年末頃から、
    赤松氏旧臣たちは、
    味方のふりをして
    吉野の後南朝勢力に潜入した
    (この時の後南朝皇子は、
    「自天王」「忠義王」
    と名乗っていた。
    系譜は不明)
  • 長禄元年(1457)十二月、
    赤松氏旧臣は
    自天王、忠義王を殺害し、
    神璽を一時奪取
    (中心となったのは、
    浦上宗則)
  • しかし、襲撃を受け、
    神璽を奪い返される

赤松再興

  • 大和国の越智家栄、
    小川弘光が赤松氏旧臣に協力
  • 長禄二年(1458)三月、
    小川氏が後南朝を襲撃、
    神璽を奪還
  • その後、褒賞に関する
    交渉が頓挫し、五月、
    小川氏が神璽を持ったまま
    逃げ出す
  • しかし八月、
    交渉が成立し、
    十五年ぶりに
    神璽が内裏に還る
  • 長禄二年十一月、
    赤松政則が再出仕し、
    長禄三年には加賀・備中を
    領国として認められた

補足

  • 神璽が行方不明だった期間、
    当時随一の学者であった
    一条兼良(かねら)は、
    「三種の神器がなくても
    天皇の徳には影響ない」
    という見解を出していた
  • 「神璽を奪還すれば
    赤松氏再興」
    の流れには、
    山名氏に対抗したい
    細川氏の思惑があった。
    この交渉のキーパーソンに、
    三条実量という人がいた
  • 後南朝勢力内に
    取り入った
    赤松氏旧臣の中には、
    そのまま彼らに
    味方しようとする
    動きもあったらしい
  • 神璽奪還で
    中心的な役割を果たした
    赤松氏旧臣の小寺氏は、
    100年後に稀代の軍略家を生む
  • 赤松氏旧臣に
    協力した越智氏は、
    「大和永享の乱」
    で滅ぼされた後
    復活していた
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  • 2箇所を領国として
    与えられた赤松氏だが、
    両地とも、支配は
    簡単ではなかったとのこと
  • 復活した政則は、
    嘉吉の乱で
    滅ぼされた赤松義雅が、
    敵軍の赤松満政に託した、
    千代丸の子である
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  • 赤松氏再興の
    中心だった浦上宗則。
    天晴!忠臣の鑑!
    その後も活躍の場がある
  • ところでこの事件、
    別に「変」じゃなくない?

参考書籍