小泉城・霊山城の合戦(遊佐長教暗殺から)

三好長慶・遊佐長教らは
江口の合戦で勝利し、
足利義輝・細川晴元を
京都から追い払った。
しかし
天文二十年(1551)には
遊佐長教は暗殺されてしまう。
その後、長慶と義輝は
一時和睦するが、
天文二十二年(1553)には
再び衝突。
霊山城の義輝に長慶側が
圧勝する

「室町時代政争史」目次
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三好長慶暗殺未遂

  • 天文十八年(1549)、
    三好長慶・遊佐長教側が
    江口の戦いで細川晴元側に勝利。
    晴元・足利義藤(=義輝)らは
    近江に逃走する
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  • 天文二十年(1551)三月、
    三好長慶が伊勢貞孝邸で
    斬りかかられ、負傷
  • 犯人は捕らえられ、
    「足利義輝の命」
    と自白
  • さらに
    同天文二十年(1551)三月にも
    長慶を殺害する
    放火計画が発覚
  • その翌日、
    細川晴元軍が洛中に進入しており、
    晴元側の三好側に対する
    抵抗は続いていた

遊佐長教暗殺

  • 同天文二十年(1551)五月、
    長慶の盟友・
    遊佐長教が暗殺される
    (犯人は長教が帰依していた
    時宗の僧侶)

長慶・義藤(義輝)、一時和睦

  • しかし、
    長慶と義藤(義輝)は和睦。
  • 天文二十一年(1552)正月、
    義藤は上洛
  • 同天文二十一年二月には、
    長慶が上洛し、
    義藤と対面。
    長慶は御供衆に取り立てられる
  • 一方、晴元は立場を失い、
    若狭に逃亡

長慶・義藤(義輝)再び決裂

  • しかし
    天文二十二年(1553)三月、
    義藤(義輝)は長慶と訣別。
  • 天文二十二年(1553)三月、
    義藤は東山に築城した
    霊山城(りょうぜんじょう)に入城する
  • そして義藤は細川晴元を赦免する

小泉城・霊山城の合戦

  • 七月、義藤側は三好側の城・
    西院小泉城を包囲する
    (義藤は船岡山に着陣)
  • しかし八月、
    三好軍が反撃。
    霊山城に総攻撃。
  • 三好軍が勝利し、
    細川晴元は逃走
  • 義藤はまた朽木に逃走する
  • これをもって、
    “三好政権”
    の確立」
    と見る向きも多い

補足(三好兄弟、細川持隆殺害)

  • 天文二十二年(1553)六月、
    三好之康、十河一存らが
    阿波守護・細川持隆を殺害
    (之康・一存は長慶の弟)
    (細川持隆は晴元のいとこ)
  • 之康らは持隆の子・
    真之を擁立した
  • この事件の原因は不詳

場所

参考書籍