正元元年(1259)、
後嵯峨上皇は
後深草天皇を譲位させ、
その弟・亀山天皇を
即位させる。
亀山天皇の次は
亀山天皇の子息・
後宇多天皇が即位。
しかし、
鎌倉幕府の裁定により
後宇多天皇の次には
後深草天皇の子息・
伏見天皇が即位することになる
「室町政争戦乱史」目次
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後深草天皇譲位、亀山天皇即位
- 仁治三年(1242)、
四条天皇が死去。
邦仁王が即位する(後嵯峨天皇)
(第八十八代天皇とされる) - 四年後、
後嵯峨天皇は
自らの皇子・
久仁親王(=後深草天皇)に譲位。
後嵯峨天皇は治天・上皇となる
(のち法皇)
(後深草天皇が後の持明院統の祖) - しかし、後嵯峨上皇は
後深草天皇の弟の
恒仁親王(=亀山天皇)を
可愛がっていた - 正元元年(1259)、
後嵯峨上皇、後深草天皇に
譲位を命じる - 恒仁親王が即位(=亀山天皇)
(後の大覚寺統の祖) - さらにご嵯峨天皇は、
亀山天皇の皇子・
世仁親王を皇太子に
(のちの後宇多天皇)
伏見天皇(持明院統)立太子
- 文永九年(1272)、
後嵯峨法皇死去。
亀山天皇が「治天」となり、
親政を開始 - 文永十一年(1274)、
亀山天皇は自分の皇子・
世仁親王(=後宇多天皇)に譲位。
亀山上皇が院政を行なう - 後深草上皇はこれに不満を抱く。
文永十二年(1275)、
後深草上皇、自らの出家を
幕府に通達し、
幕府は困惑 - 幕府(執権北条時宗)の提案により、
(持明院統)後深草天皇の皇子・
煕仁親王(のちの伏見天皇)が
(大覚寺統)亀山上皇の猶子となり、
皇太子となる - 弘安十年(1287)、
後宇多天皇(大覚寺統)が退位。
伏見天皇が即位する。
後深草天皇(持明院統)が治天となり、
院政を開始
伏見天皇襲撃事件
- 正応三年(1290)、
後深草上皇は出家。
伏見天皇の親政が開始 - 正応三年(1290)三月九日、
浅原為頼の配下、
三、四人の武士が、
伏見天皇の内裏を襲撃。
伏見天皇は逃れ、
襲撃者は自害 - 「持明院統の天皇・皇太子を
大覚寺統が襲ったのでは?」
と、亀山上皇に嫌疑がかかる - しかし、
亀山上皇と後宇多上皇が
無実を訴え、
幕府は二人を無実とした - こうして、
両統迭立(てつりつ)が始まった
補足
- 四条天皇が亡くなったのは
家の中で遊んでいて、
転んだため。
十二歳だった - 後深草上皇が
持明院に住んだことから、
後深草系統を
「持明院統」
と呼ぶようになった - 一方、亀山法皇が
大覚寺に住んだことから、
亀山系統を
「大覚寺統」
と呼ぶように - 即位順は皇統譜による
- 厳密には親王宣下を受ける前は
「–親王」
とするのはおかしいし、
生前から
「–天皇」
と諡で呼ぶのはおかしいのだが、
ここでは
「–親王」
「–天皇」
に統一する
場所
- 光照院門跡
京都市上京区新町通上立売上る
もともと持明院があった
ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=617 - 大覚寺
京都府京都市右京区嵯峨大沢町
www.daikakuji.or.jp/
参考書籍
- 「歴史REAL
南北朝」
洋泉社
中丸満 = 該当部分
再刊求む
www.amazon.co.jp/dp/4800312817 - 「日本の歴史11
蒙古襲来と徳政令」
講談社
筧雅博 = 著
bookclub.kodansha.co.jp/title?code=1000023527