鎌倉政争戦乱史

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弘安の役

モンゴル軍再出撃 弘安四年(1281)五月、 モンゴル帝国の 日本遠征軍第一陣(東路軍)が 朝鮮半島合浦から出発 (東路軍の主体は高麗) 第二陣(江南軍)も 寧波から出発後、 壱岐で合流予定だった (江南軍の主体は南宋人と モンゴ...
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杜世忠来日/異国征伐計画/「蒙古襲来絵詞」

杜世忠来日 文永十一年(1274)十月、日本はモンゴルの遠征「文永の役」にからくも勝利する 文永十二年(1275)四月元使・杜世忠が長門国室津に到着 しかし、九月、杜世忠は鎌倉龍ノ口で首をはねられた 異国征伐計画 建治二年三月ころ、幕...
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文永の役(博多の戦い)

元軍博多上陸 松浦地方の戦いで勝利した元軍は東へ進む 文永十一年(1274)十月十九日、元軍、博多へ到着。博多湾の西側の百道原(ももちばる)や今津から上陸した 日本側の指揮官は鎮西西方奉行・少弐資能、東方奉行・大友頼泰 元軍の戦闘 日...
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文永の役(対馬・壱岐・松浦の戦い)

元軍対馬襲来 1273年四月、元が三別抄の乱を鎮圧する 文永十一年(1274)十月、元・高麗の日本遠征軍が高麗の合浦(ハッポ)を出発 文永十一年(1274)十月五日、元・高麗軍(以下「元軍」)が対馬佐須浦に上陸する 対馬では守護代・宗助国...
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三別抄の乱

三別抄の乱 1269年六月、高麗の林衍(イムヨン)が高麗元宗(モンゴルに服属していた)に対し叛乱 この叛乱は成功するが、1270年二月、林衍は病死 林衍の子・林惟茂(イムヨム)も殺害される モンゴルへの降伏後も高麗の都は江華島にあったが、...
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文永六年のモンゴル・高麗使節

対馬住人連行 文永五年(1268)に、 モンゴル・高麗からの 使節・潘阜が 日本に到着 この使節に 幕府・朝廷は 返事をしなかった 報告を受けた クビライハンは 再度使者を送る 文永六年(1269)三月、 潘阜らは対馬に ...
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文永五年のモンゴル・高麗使節

モンゴルの伸張 1206年、チンギスハンが即位する 1233年、モンゴル、金を滅ぼし、中国北部を支配下におく 1259年、モンゴル、高麗を降伏させる 1259年、第四代ハンのモンケハンが病死 1264年、フビライハンが「アリクブケの乱」に...
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承久の乱(三上皇配流)

後鳥羽上皇隠岐へ 承久三年(1221)七月、 後鳥羽院は 隠岐へ流される その後、 十九年間隠岐に生きた 順徳院佐渡へ 承久三年(1221)七月、 順徳院は佐渡へ流される 百敷や古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔な...
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承久の乱(後高倉院と後堀河天皇)

幕府軍京都進軍 承久三年(1221)六月十五日、 勢多・宇治での 戦に勝利した 鎌倉幕府軍は、 京都へなだれ込む 京都各所に火が放たれた 上皇軍に加わった 皇族・貴族・武士などの 身柄が確保される 後高倉院 後鳥羽上皇...
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承久の乱(勢多・宇治の合戦)

勢多・宇治の合戦 承久の乱開戦後、三軍で西に進軍した幕府軍は濃尾・北国で勝利。合流して畿内へ向かう 後鳥羽上皇は比叡山に協力を要請するが断られる 幕府軍は勢多を通ってまっすぐ西に向かう軍と宇治を通って南から京都を攻める軍に分かれる 承久三...