二月騒動

文永五年(1268)、
北条時宗が執権に、
北条政村が連署に就任。
文永九年(1272)二月、
時宗、政村は鎌倉で
名越時章、教時兄弟を殺害。
同月、京都では
時宗の異母兄で
六波羅北方探題の
北条時輔が滅ぼされる

執権北条時宗

  • 文永五年(1268)三月、
    執権北条政村が連署となり、
    連署北条時宗が執権に就任する
    (時宗は五代執権北条時頼の子)
    (時宗は十八歳であった)
  • 時宗には異母兄の
    北条時輔がいた
  • またこの頃、
    北条嫡流の得宗家と
    北条庶流の名越(なごえ)家は
    微妙な関係にあった。
  • これより二十年ほど前の
    寛元四年(1246)には、
    名越家当主の光時が失脚し、
    弟の名越時章らが
    北条時頼に陳謝して
    許されるという
    事件が起きている
    (寛元の政変)
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  • 時宗執権就任に先立つ
    文永五年(1268)閏正月には、
    モンゴルの国書が届いていた

二月騒動(鎌倉)

  • 文永九年(1272)二月十一日、
    鎌倉で名越時章、教時兄弟の
    屋敷が、時宗と政村の家臣に
    襲撃される事件が発生
  • この事件によって
    名越時章、教時兄弟は
    滅ぼされてしまう
  • しかし、後日、
    名越屋敷を襲撃した
    五人の中心人物は
    処刑された

二月騒動(京都)

  • 四日後の
    文永九年(1272)二月十五日、
    六波羅北方探題
    北条(赤橋)義宗が
    南方探題北条時輔と合戦
  • 時輔は討ち取られてしまう
  • 公式には、
    「時輔が謀反を企てていたため、
     時宗が滅ぼした」
    とされる

得宗家一強体制へ

  • その後も名越家は
    力を保持し続けたが、
    北部九州の守護職は
    替えられてしまう
  • 二月騒動をきっかけに、
    北条嫡流の得宗家の
    一強体制がはじまった

補足

  • 時輔には長く生存説があった
  • 時輔と言えば
    渡部篤郎。
    赤マフラーである

参考書籍