観応の擾乱(直義京を脱出)

諸国で有力武将が挙兵。
正平六年/観応二年
(1351)七月、
近江の佐々木道誉討伐として
尊氏が京から出陣。
播磨の赤松則祐討伐として
義詮も京を出る。
それを尊氏側の罠だと感じた
直義は京を脱出し、
北陸方面へ

「室町政争戦乱史」目次
natsunishiki.com/muromachi_seisoushi/

諸国で挙兵が相次ぐ

  • 正平六年/観応二年
    (1351)二月、
    足利尊氏と足利直義の
    和睦が実現する
  • しかし、勝ったはずの
    直義は幕府内で
    孤立を深めることに…
    natsunishiki.com/kannou_no_jouran_5/
  • 正平六年/観応二年
    (1351)七月、
    赤松則祐
    興良親王を奉じて
    播磨で蜂起
    (赤松則祐は赤松則村の子)
    (興良親王は護良親王の子)
  • その後も
    幕府の有力武将が
    次々と自分の分国へ
    帰ってしまう
  • そのうち、
    近江の佐々木道誉、
    美濃の土岐頼康、
    伊勢の仁木義長などが
    反幕府の兵を挙げる

尊氏、義詮京を出る

  • 正平六年/観応二年
    (1351)七月二十八日、
    近江の佐々木道誉討伐のため
    尊氏が京を出る
  • 翌七月二十九日、
    足利義詮も
    播磨の赤松則祐討伐のため
    京を出る

直義京を脱出

  • 京に残った直義は、
    「赤松・佐々木と
     尊氏・義詮は
     裏で結託している
     のではないか」
    「京の直義を
     挟み撃ちにしようと
     しているのではないか」
    と考えた
  • 七月三十日夜、
    直義一党は京を脱出
    北陸へ向かった
    (直義の他、
     桃井直常、
     斯波高経、
     山名時氏、
     畠山国清らがいた)

尊氏・直義戦争へ

  • 八月、義詮と尊氏が帰京
  • 尊氏が直義に
    帰京要請を出すが、
    直義はこれを拒否
  • 尊氏は直義の追撃を決意
  • 直義と尊氏の和平は
    五ヶ月で破綻し、
    再び戦いがはじまる

補足

  • 尊氏・義詮は
    実際に直義を討とうと
    していたのか、
    直義が疑心暗鬼になっていた
    だけなのか。
    両方の説がある

参考書籍