鎌倉政争戦乱史目次

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  • 「室町政争戦乱史」目次
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阿野全成の変 阿野全成は
源頼朝の異母弟だったが
建仁三年(1203)五月、
捕縛され、六月に殺害される
畠山重忠の乱 北条時政は牧の方を後妻とし、
二人の娘婿に平賀朝雅がいた。
元久二年(1205)六月、
三人は有力武士畠山重忠・重保の
討伐を決行。
畠山一族は滅亡する
牧氏の変 元久二年(1205)閏七月、
北条時政と牧の方は、
平賀朝雅を将軍に擁立しようとする。
しかし、北条義時・政子が
これを阻止。
時政と牧の方は伊豆に追放され、
平賀朝雅は殺害される
実朝暗殺 建保七年(1219)正月二十七日、
源実朝は鶴岡八幡宮にて、
右大臣に任じられたことの
拝賀を行なう。
式典後、頼家の遺児・公暁
実朝を暗殺。
すぐに公暁も討たれる
九条頼経下向、
源頼茂の変
建保七年(1219)一月の
源実朝暗殺後、
阿野全成の子・時元が滅ぼされ、
阿野全成の子の道暁や
源頼家の子禅暁なども
殺害される。
幕府軍は親王東下を要請するが、
後鳥羽上皇はこれを拒否。
三寅(九条頼経)が鎌倉に向うことに。
大内裏守護の源頼茂が
後鳥羽上皇軍に滅ぼされる
伊賀氏の変、
泰時執権就任
元仁元年(1224)六月、
北条義時が急死。
義時後妻の伊賀の方
その兄・伊賀光宗が、
娘婿の一条実雅を将軍に、
北条政村を執権に擁立しようと
企んだとされる。
しかし、北条政子がこれを阻止。
北条泰時が執権に、
北条時房が連署に就任する
宮騒動
(寛元の政変)
寛元二年(1244)、
四代将軍九条頼経の息子・
九条頼嗣が五代将軍に就任
頼経は「大殿」となる。
一方、寛元四年(1246)、
北条時頼が五代執権に。
すぐに時頼は
北条家一族の名越家と対立
名越光時を失脚させ、
九条頼経を京に送還する
宝治合戦
(三浦氏滅亡)
「宮騒動」で
名越家・九条頼経を倒した
執権北条時頼
宝治元年(1247)、
再有力御家人の三浦氏と対立。
三浦泰村・光村兄弟ら、
三浦氏を滅ぼす
建長政変
(九条頼嗣廃職、
 宗尊親王下向)
北条時頼が
宮騒動、宝治合戦に
相次いで勝利したのちの、
建長三年(1251)、
鎌倉で謀反騒動が勃発。
将軍九条頼嗣は廃され、
朝廷から宗尊親王が
六代将軍として送られる
二月騒動 文永五年(1268)、
北条時宗が執権に、
北条政村が連署に就任。
文永九年(1272)二月、
時宗、政村は鎌倉で
名越時章、教時兄弟を殺害。
同月、京都では
時宗の異母兄で
六波羅北方探題の
北条時輔が滅ぼされる
弘安徳政、
霜月騒動
弘安七年(1284)、
執権北条時宗が死去。
安達泰盛が、
「弘安徳政」
と呼ばれる政策を行なう。
しかし反発は大きく、
弘安八年(1285)十一月、
内管領平頼綱が
安達泰盛を滅亡させる
平禅門の乱 霜月騒動後、
幕府政治を主導したのは
平頼綱とその息子の
飯沼資宗だった。
しかし
正応六年(1293)四月、
執権北条貞時が
頼綱・飯沼資宗親子を殺害する
嘉元の乱 嘉元三年(1305)、
内管領・北条宗方
幕府の実力者である
連署・北条時村を殺害
得宗・北条貞時の
命令とされたが、
宗方も殺害される
両統迭立
(後嵯峨
-後深草
-亀山
-後宇多
-伏見)
正元元年(1259)、
後嵯峨上皇
後深草天皇を譲位させ、
その弟・亀山天皇を
即位させる。
亀山天皇の次は
亀山天皇の子息・
後宇多天皇が即位。
しかし、
鎌倉幕府の裁定により
後宇多天皇の次には
後深草天皇の子息・
伏見天皇が即位することになる
両統迭立
(伏見
-後伏見
-後二条
-花園
-後醍醐)
伏見天皇(持明院統)が
子息に譲位し、
後伏見天皇が即位。
これに
亀山上皇(大覚寺統)は反発し、
鎌倉幕府を動かす。
後二条天皇(大覚寺統)が
即位して持明院統は逆に反発。
徳治三年(1308)、
後二条天皇が急逝し、
花園天皇(持明院統)が即位し、
尊治親王(後醍醐天皇)(大覚寺統)が
皇太子となった
文保の和談、
後醍醐天皇即位
文保元年(1319)、
鎌倉幕府から朝廷に
皇位継承に関する要請が伝えられる
(文保の和談)。
文保二年(1318)、
尊治親王(大覚寺統)が即位
(後醍醐天皇)。
後醍醐天皇は
朝廷復権に向け、
精力的な政策を打ち出す
正中の変 元亨四年(1324)、
後醍醐天皇が倒幕計画を
企てるが、実行直前に
幕府に発覚。
天皇側近の日野資朝は流罪となる。
しかし、
後醍醐天皇自身は不問とされ、
帝位を保つのだった
元弘の変 元弘元年(1331)、
後醍醐天皇の倒幕計画が露見。
天皇周辺の者が処罰される。
後醍醐天皇は脱出して
笠置山に籠城。
また、楠木正成
下赤坂城に立て籠もって
幕府軍に抵抗する。
幕府により、持明院統の
光厳天皇が即位。
笠置山落城後、
後醍醐天皇はとらえられ
隠岐に流罪となった
元弘の乱
(楠木正成千早籠城、
 後醍醐天皇隠岐脱出、
 赤松則村入京、
 菊池合戦)
元弘二年(1332)から
三年にかけて、
吉野で護良親王、
河内(千早・赤坂)で楠木正成、
播磨の赤松則村、
九州の菊池武時らが
あいついで反幕府の挙兵。
また、元弘の変で敗れ、
隠岐に流されていた後醍醐天皇
元弘三年(1333)に脱出し、
名和長年とともに
伯耆国船上山に立て籠もる
元弘の乱
(足利高氏
 六波羅攻撃)
元弘三年(1333)、
足利高氏らは、
鎌倉幕府の命を受け、
後醍醐天皇軍の
討伐へ向かう。
しかし、
高氏は鎌倉幕府の
六波羅探題を襲撃し、
六波羅探題は滅亡する
元弘の乱
(新田義貞挙兵、
 鎌倉幕府滅亡)

元弘三年(1333)
上野国の新田義貞
倒幕の兵を挙げ、
鎌倉に進攻。
得宗・北条高時らは自害し、
鎌倉幕府は滅亡する
元弘の乱
(博多合戦、
 鎮西探題滅亡)
元弘三年(1333)五月、
足利尊氏の六波羅攻撃、
新田義貞の鎌倉進攻により、
鎌倉幕府は滅亡した直後、
鎮西探題も倒幕勢に攻撃され、
滅亡する