伊賀氏の変、泰時執権就任

元仁元年(1224)六月、
北条義時が急死。
義時後妻の伊賀の方
その兄・伊賀光宗が、
娘婿の一条実雅を将軍に、
北条政村を執権に擁立しようと
企んだとされる。
しかし、北条政子がこれを阻止。
北条泰時が執権に、
北条時房が連署に就任する

北条義時の死

  • 承久元年(1221)、
    鎌倉幕府は承久の乱に勝利
  • 承久の乱後、
    義時の嫡子・
    北条泰時は六波羅探題として
    京都に残っていた
  • もう一人、六波羅探題を
    務めていたのは
    義時の弟の北条時房
  • 元仁元年(1224)六月十三日
    鎌倉幕府二代執権の
    北条義時が急死
    六十二歳だった
  • 義時の姉・北条政子は
    義時の死を受け、
    泰時と時房を鎌倉に呼び寄せる

伊賀氏の謀反疑惑

  • 義時の妻に
    伊賀方(いがのかた)
    という女性がいた
  • 義時と伊賀方の間の子が
    北条政村である
  • そして、伊賀方の兄が
    政所執事の伊賀光宗だった
  • 光宗と伊賀方は、
    政村を執権につけ、
     一条実雅(義時の娘婿)を
     鎌倉殿とする
    という計画だったとされる

伊賀氏の計画頓挫

  • しかし政子は
    有力御家人・三浦義村と
    伊賀氏の共闘を阻止
  • 伊賀氏の計画は頓挫
  • 一条実雅は越前に、
    伊賀光宗は信濃に、
    伊賀方は伊豆に
    それぞれ流される

その後

  • 政子の後押しを受けた
    泰時が執権に就任
  • そして、時房が
    「連署」
    の立場に就く
    (執権とともに
    文書に署名するように)
  • 一方、
    政村は処分されなかった
  • 嘉禄元年(1225)七月、
    北条政子死去
  • 寛元二年(1244)
    光宗は許され、
    幕府評定衆に復帰する
    (政村の援助が
    あったのかもしれない)
  • 一方、伊賀方は
    伊豆で病死したらしい

参考書籍