比企能員の乱

頼家危篤

  • 建仁三年(1203)七月、
    将軍源頼家重病に陥った
  • 頼家の嫡子は一幡
    一幡の母は
    御家人比企能員の娘
    若狭局(わかさのつぼね)
    だった
  • 頼家の弟に千幡。
    千幡の母は北条政子である
  • 建仁三年(1203)八月、
    頼家は惣守護織と
    東国の守護織を一幡に、
    西国の守護織を千幡に
    譲ると決定

比企一族滅亡

  • 建仁三年(1203)九月二日、
    北条時政が比企能員を
    自邸に招き殺害
  • 残された比企一族は
    一幡とともに
    小御所(一幡の館)に籠城
  • しかし、
    幕府軍の攻撃により
    比企一族は滅亡
    一幡も死亡
  • 九月五日、
    頼家が回復
  • 頼家は激怒したが、
    出家させられ、
    伊豆修善寺に幽閉

実朝将軍へ

  • 十二歳の千幡が
    後継者に。
    「源実朝」となる。
    名付け親は後鳥羽上皇だった
  • 北条時政が大江広元と並ぶ
    政所別当に

その後

  • 翌元久元年(1204)年
    七月十八日、
    伊豆にて頼家死去
    北条氏による
    暗殺とみられる
  • 後鳥羽上皇は、
    頼家がまだ生きているのに
    頼家死亡という報告を受けており、
    あとで、実は頼家が生きていた
    ということを知った
  • 「吾妻鏡」では、
    「所織の分割譲与に
    反発する比企一族が
    時政追放の相談をしたが、
    それを部屋の近くで聞いた
    政子が知らせて
    北条時政が先手を打った」
    とされている
  • 以上のような
    「吾妻鏡」の記述は
    北条氏側からの視点なので注意

参考書籍