文永五年のモンゴル・高麗使節

モンゴルの伸張

  • 1206年、
    チンギスハンが即位する
  • 1233年、
    モンゴル、金を滅ぼし、
    中国北部を支配下におく
  • 1259年、
    モンゴル、高麗を
    降伏させる
  • 1259年、
    第四代ハンの
    モンケハンが病死
  • 1264年、
    フビライハンが
    「アリクブケの乱」
    に勝利

文永五年のモンゴル・高麗使節

  • 1266年、
    モンゴルが
    使者・ヒズルに
    国書を携えて
    日本に送る
  • ヒズルは高麗に留まり、
    高麗使潘阜(はんふ)が
    日本へ行くことに
  • 文永五年(1268)正月、
    潘阜がモンゴル国書と
    高麗国書をもって
    大宰府へ到着
  • 大宰府守護人
    武藤(少弐)資能が
    国書を鎌倉に届けた
  • 幕府は朝廷に国書を送る
  • しかし
    返事は作成されなかった
  • 七月、潘阜は帰国
  • その後、
    潘阜はモンゴルに、
    対日交渉の不調を報告した

国書の内容

  • 国書は、
    モンゴル皇帝と
    日本国王の上下関係を
    前提とするものであった
  • ただし、
    主旨としては
    「親睦を深めよう」
    とのこと
  • 高麗からも、
    返信を薦める
    国書がついていた

補足・余談

  • この頃の朝廷は
    亀山天皇・後嵯峨上皇が
    治天という体制

参考書籍