足利義満死去

北山造営

  • 明徳三年(1392)十月、
    南北朝合一を
    成し遂げた足利義満
  • 応永五年から、
    義満は京都北山に
    住むようになっていた
    (今の鹿苑寺金閣)
  • これ以降、
    将軍義持が
    「室町殿」
    と呼ばれ、
    義満は、新たに
    「北山殿」
    と呼ばれるようになる

日本国王

  • 応永八年五月、
    義満は博多商人肥富と
    同朋衆祖阿を明に派遣
  • 明の建文帝からの
    詔書には、
    日本国王源道義
    とあった
  • ただし、
    「日本国王」が
    国内向けのアピール等に
    使われたわけではない

日野康子、准母・准三后に

  • 応永十三年、
    後小松天皇生母が死去。
  • 義満は
    「天皇が在位中にその
    父母とも亡くなるのは
    縁起が悪い。
    誰かを准母
    (母役)としてはどうか」
    と発言
  • 義満の妻・日野康子が
    准母となる
  • 日野康子は
    「北山院」
    女院宣下を受ける

義嗣親王化(?)

  • 義満と息子の将軍義持とは
    関係が良くなかった
  • 一方で、
    もう一人の息子・
    義嗣を寵愛
  • 応永十五年四月、
    息子・義嗣の元服を
    内裏で、親王に従って行う

義満の死

  • しかし、
    応永十五年五月六日、
    義満は突如、
    死去する
  • 朝廷は
    鹿苑院太政法皇
    の称号を与えると伝えるが…
  • 将軍義持と管領斯波義将が
    これを辞退
  • こうして、
    義嗣は取り残される

参考書籍