赤松則尚の乱

享徳三年(1454)末、
足利義政から山名宗全に
隠居命令が下る。
この隙をついて
赤松則尚が播磨へ。
しかし享徳四年、
則尚を宗全が攻撃し、
則尚は自害

流れ

  • 享徳三年(1454)十一月、
    畠山家家督争いの余波を受け、
    足利義政が突然、
    山名宗全(持豊)退治の
    総大将に細川勝元を任命
  • しかし、
    勝元は義政に、
    宗全の宥免を訴え、
    これにより
    宗全は隠居処分で許される
  • この隙をつき、
    赤松則尚が播磨に下向
  • 享徳四年四月、
    宗全から家督を譲られた
    山名教豊が、赤松則尚を
    討つため、京からまず但馬に
    向かおうとする
  • 一方、
    赤松を支持する
    細川成之(讃州家)は、
    京で合戦を仕掛け、
    教豊の下向を阻止を狙う
  • この細川成之の行動を
    日野富子がなだめ、
    開戦に至らず
    山名教豊は但馬に下向
    (細川勝元が見送っていた)
  • その後、五月に
    赤松則尚軍と
    山名宗全・教豊軍が開戦。
    赤松軍は敗北し、則尚は
    備前鹿久居島で自害

場所

補足

  • 細川成之は、かつて
    則尚出仕のはからいをした
    細川持常の養子(甥)
    natsunishiki.com/20210329_1/
  • 細川勝元
    -山名宗全
    -日野富子
    のラインと、
    足利義政
    -細川成之
    -赤松則尚
    のラインの対立、
    と見ることもできる
  • しかしこの件をきっかけに
    山名宗全への警戒が強まった、
    とも

参考書籍